Tさんとの論争」を読んで

1996年7月18日の更新には書いていなかった部分であったので 興味深く読みました。1996年12月30日の更新した部分と見て もっと早くみていればとくやまれました。

さてファンダメンタリストのTさんとの聖書理解について13ページに亘る 論争の中で、私には、佐倉さんが言った、現代の常識である

ついでに言えば、わたしたちの科学的知識のすべて、わたしたちの日常の経験のすべて、これら全部の状況証拠が、「奇跡を信じる」立場に対して、いわば「0対100」の割合で、全面的に不利な証言をしているのです。
の部分が圧巻でした。宇宙は150億年で出来たと科学では考えられており全く聖書は信じられ ません。

キリスト教原理主義者は、宇宙は6000年から12000年前に創造されたと信じている。彼らがそう信じる理由は、聖書に出てくるイスラエル族長たちの「家系図」を計算するとそういう結果になるそうです。

早くこの言葉を聞きたかったのでした。Tさんのコメントが無いのは残念ですが この事を否定することは出来ないでしょう、普通の人間であれば。科学と宗教は両 立出来ないとジャーナリズムでは言っていますよ。カールセーガンの一連の著作 を読めば科学者は聖書を文字とうり受け取っていなく、懐疑的であることがわかります。

またついでに言えばカトリックの総本山のバチカンでも、聖書には科学的間違いが ある とみとめています。私は毎日バチカン放送をきいています。これは確かです。 キリスト者でも進化論を唱える人も出てきています、聖書には反していますが。私 は神仏は客観的には存在せず、信じている人にのみ主観的に存在する。と思って います。

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キリスト者でも進化論を唱える人も出てきています
聖書と科学のあいだの相克には長い歴史がありますが、おっしゃる通り、なんだかんだ言いながらも、結局は科学の方にすりよって来ているのがキリスト教の現実です。しかしながら、科学は決して聖書の代わりにはなれません。なぜなら、聖書は科学が決して与えることのできないものを約束するからです。すなわち、人間の救いです。

家庭や学校や会社での問題に深く心を悩ませるとき、「あなたも幸福になれます」と語りかけてくるのは、科学ではなく、宗教です。自己の罪悪感に心を深く悩ませ、人生に希望を見いだせないとき、「あなたも救われます」と語りかけてくるのは、科学ではなく、キリスト教です。

したがって、この聖書と科学のあいだに横たわる問題の核心は、科学と聖書のどちらの主張が正しいか、というところにではなく、聖書と科学の主張の交差するところ、つまり知識の領域において、聖書を信じる宗教が、実際には自分の知識の届かない領域に関する事柄について、自分の救いを得るために、「真実である」と確信しなければならない教えであるところにあります。言い換えれば、真実であるかどうかを吟味する努力よりも、自分が救われるかどうかへの配慮のほうに、より大きな価値が与えられるところに、聖書を信じる宗教の特質があると思われます。

「聖書はすべて真理である」という主張は、聖書の一つ一つの主張が真実であるかどうか吟味した結果発表された主張ではなく、自己の救いが聖書に依存しているという信仰から、真偽の吟味をすることなく、生まれた主張なのです。自己の救いがそこに依存しているわけだから、聖書に誤謬があることなど、はじめから受け入れられないのです。

こういうことですから、真実よりも自己の救いをより大きな価値とする人がいるかぎり、いかにその矛盾が指摘されようと、また「非科学的」と非難されようと、聖書を信じる宗教は繁盛するに違いありません。まったく同じ理由で、どんなに胡散臭い新興宗教であろうと、真実であるかどうかよりも、幸福にしてくれるかどうかを探し求めている人々がいる限り、これからも、新興宗教という「幸福を売る商売」は繁盛するに違いありません。

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