聖書が神から来ているからすべて論理的にコンシステントである、という命題に対して あなたの反駁には別に異論はありません。 ただ不毛な努力のような気がしました。ごめんなさい。

私自身はキリスト教徒でもなく、エホバの証人でもないのですが、聖書は持っていて時々読んだり しています。 しかしそれが正しいか、というのはほとんど頭をかすめませんでした。正しいか、という問いはあなたの ような専門家にまかせればよいでしょう。 むしろ私には聖書が地球上で様々なヒエラルキーや比喩を生み出すテキストであるという事実が 聖書の力強さを示しているように思えます。だから中沢新一氏のような聖書の捉えかたのほうが 実り多いと思うのですが。

確かなのはエホバの証人もあなたも聖書のおかげでいろいろと考えを巡らせることができるというわけです ね。 そういう意味で聖書は立派な書物です。

あとひとつ余計なことですが真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう。あなたの文章からは潤いのないものを感じてしまいます。

それでは。

(1)真理の追究について

なんだか、文房具のお店を開いているところに、ハンバーガーやコーラを買いに来ていただいたような感じで、「ごめんなさい」とでも言うべきなのか、「お気の毒さま」とでも言うべきなのか、まったく、なんと言ってよいか、適当な言葉が見つかりません。

この「聖書の間違い」シリーズの目的については、くどすぎるかと思われるほど、くわしく説明を試みたつもりですが、ご覧のとおり、ここでは聖書の記述の真偽を吟味する作業だけを「商品」としているものです。したがって、真偽を吟味する作業にいかなる関心も抱かず、「それが正しいか、というのはほとんど頭をかすめ」ない方が求めておられるものは、ここにはないとあきらめていただかねばなりません。

ここに蒔かれている種は、「真か偽か」という疑問ですから、期待されている「実り」は、その疑問に対する答えです。したがって、「潤い」とか「幸福」とか、何か別のものを刈り入れようと期待しても、当然その期待ははずれてしまうでしょう。しかし、疑問を提示すること自体がすでに「実り」と言えるかも知れません。なぜなら、聖書は、実に長い間、人々の前に「権威」として君臨し、それに疑いを持つ者の命さえ奪ってきたからです。現在でも、聖書に数々の疑問を抱きながら、恐怖感から、自分の正直な思いさえ自由に発言できない人々が沢山あります。それは今でも聖書が「権威」として君臨しているからです。聖書主義であろうが、天皇主義であろうが、知識によってではなく、権威によって真理の主張がなされる事態が生じるとき、僕は一つの疑問符と化してその主張を吟味するでしょう。

現代は、まことに批判の時代であり、一切のものが批判を受けねばならぬ。ところが、一般に宗教はその神聖によって、また立法はその尊厳によって批判をまぬかれようとする。だがそれでは宗教にせよ立法にせよ、自分自身に対して疑惑を招くのは当然であり、また、理性がその自由率直な吟味に堪え得たところのものにのみ認める真正な尊厳を要求することが出来なくなるのである。(カント、『純粋理性批判』篠田英雄訳)
仮説と実験の繰り返しによって真理を確立しようとする科学のいとなみは、様々な仮説の真偽を吟味する作業の繰り返しに他なりません。科学だけでなく、一般に、「知るための行為」と「真偽の吟味」とは切り離すことは出来ません。真偽の吟味をすることなく、あることを真理・真実であると思い込むことが、「信じる」という行為と言えるでしょう。ある聖書の解釈がどれほど人に「潤い」をもたらそうが、どれほど人を「幸福」にしようが、いかほどの「実り」をもたらそうが、何人の病人を癒そうが、真偽の吟味を欠いたものは知識でもなく真理でもありません。
「ある教義が人を幸福にする、有徳にする、だからそれは真理である、というほど安易に考える者はいない。…幸福や道徳は論拠とならぬ。ところが、思慮ある人々ですらも、不幸にし邪悪にすることが同様に反対証明にはならぬ、ということを忘れたがる。たとえ極度に有害危険なものであろうとも、それが真であることを妨げはしない。」(ニーチェ、『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

(2)幸福の追求について

僕の幸福についてまで心配していただいて光栄です。

余計なことですが真理より自分を幸せにしたらいかがでしょう。
しかし、幸福論は「聖書の間違い」と直接関係ないので、別に新しいエッセイ「幸福の追求」を用意しました。他人に勧めるようなものではありませんが、もしかしたら、僕の幸福論に興味ある方もおられるかも知れないからです。


(3)聖書解釈について

さて、せっかく、「聖書が地球上で様々なヒエラルキーや比喩を生み出すテキストである」という興味深いことを語られているのですから、その点について、何か少しでも説明をしていただければ幸いと思います。また、中沢新一氏は聖書について大変多くを語られていますから、どのようなことを指して、「中沢新一氏のような聖書の捉えかた」と言われているのか、そのことについても、何か少しでも説明していただければ幸いと思います。

主張だけで、その根拠が提示されない場合、僕にはその主張をよく理解することが出来ません。たとえば、中沢新一氏は、イエスが見たものとブッダが見たものは同じものであり、それはすなわち「四次元の世界」であると、主張されています(『中沢新一の「宗教入門」』マドラ出版)が、中沢氏と違って、僕はそのようなことを知る超能力を持っていないのです。根拠を提示して説明していただかないと、他人の主張は僕には理解できないのです。

また、聖書を読んでおられながら、キリスト教徒ではないことを明確にしておられ、また、それにもかかわらず、聖書の記述の真偽については興味はないとのことですが、聖書自体は真理と偽りについてきわめて多くを語っています。たとえば、ヨハネは同胞のクリスチャン宛ての手紙の中で、キリストに関する福音を知っておりながら、イエスをキリストと認めない者に関して、次のように書いています。

あなた方は聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。わたしがあなたがたに書いているのは、あなた方が真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシヤであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。(ヨハネの手紙第一 2:20-22)
つまり、聖書を読む者が聖書の真偽に興味を持たなくても、この新約聖書の著者はイエスを救い主と認めない者を「偽り者」と断定することに何の躊躇もしません。聖書のメッセージは、ほとんどいつでもこのように、真理を偽りから区別することを強調し、それを読む者に真剣に訴えます。そのような聖書のメッセージは、真偽を断定することを「不毛な努力」であると前提にされている、あなた流の解釈によれば、どのような解釈になるのでしょうか。そのようなことも詳しく説明をしていただければ幸いと思います。

そして何よりも、ぜひ「潤い」のある文章で書いていただけたらたいへん幸いと思います(^^)。「潤い」のある文章とはどんな文章なのか、それを拝見させていただいて、僕も学ばせていだだきたいと思います。

ご感想、大変ありがとうございました。