お久しぶりです。岡野です。さて、10日に久々にホームページを見させていただ きました。 

聖書の間違いについての新しいページのほかに、「殺せ!と神が命じるとき」をみさ せていただきました。これには、ちょっとクレームをつけたい、と思います。いくら なんでもアサハラと一緒にするのは、言論の自由を超えているように思います。

もし、あなたのおっしゃることが本当に正しい、と自信があるなら、なぜ英語で書 かないのでしょう。アメリカに在住されたこともある、と聞きましたが、できないわ けでもあるんでしょうか。

それともう一つ、「原理講論」とは、どこの出版社で、ど の派のどの著者が出しているんでしょうか。まるで出典があるかのようですが、持論 か引用かは明確に区分されるべきでしょう。それがマナーのはずです。引用もとを公 表しないのは、著作権上問題がある、と指摘したいと思います。著作権について語っ ている部分もあるようですが、自分だけが権利を主張するのは、まちがいです。

言論の自由、信仰の自由、いろいろ自由はありますが、お互いの自由を犯すような ことはやめたほうがいいのではないでしょうか。少なくとも、あなたのアーティクル をみて、不特定多数のクリスチャンの信仰の自由を奪うことになるのではないかと思 います。

いくらなんでもアサハラと一緒にするのは、言論の自由を超えているように思います。
聖書の最大の英雄の一人であり、神の僕であるモーセと彼の後継者ヨシュアの教えと実践を、悪名名高い麻原やオーム真理教と「一緒にした」ことに対して、いくら何でもひどすぎる、と思われるのはわかる気がします。しかし、これまでの麻原に関する元信者の証言が正しいとすれば、また、申命記やヨシュア記の記述が正しいとすれば、麻原の殺人命令と彼の信奉者の実践が、客観的に見て、モーセの殺人命令とヨシュアの実践に、非常によく似ていることは疑う余地がありません。それは、どちらも(1)圧倒的影響力のある指導者が、(2)宗教的理由付けによって殺人を正当化し、(3)それを命令し、(4)信奉者たちが、その命令にしたがって殺人を実践したのです。しかも、どちらの場合も、殺人命令を受けた信者たちは、(5)もしその命令を実行しなかったら、彼ら自身がひどい目に遭うであろう、と脅されました。

その他のところは、岡野さんの言われていることはよく分かりません。日本人の僕が「なぜ英語で書か」なければならないのか、出典の名前だけでなく、出版社の名前や、どの教派の名前を書かねば「著作権上問題がある」のか、どういう意味で「言論の自由を越えている」のか、またいかにして僕の諸論が「クリスチャンの信仰の自由を奪うことになる」のか、申し訳ないですけど、僕にはよくわかりません。いずれも、論文の主題から、ずいぶんそれてしまっているように思われます。

「殺せ!と神が命じるとき」論が取り上げる問題の本質は、まさに、その題名のごとく、

殺人を神が命じるとき、わたしはどうしたらよいのだろうか。殺人は明らかに悪であり 善なる神がそんなことを命じるわけがない、これは何かの間違いに違いない、そう考えて、わたしはこの命令を無視するだろうか。それとも、神の意思こそが何が善で何が悪 かを決定する絶対基準であるから、不完全な人間の眼には不合理な命令と見えるかもしれないけれど、自分の勝手な意見にではなく、神に従うことこそが正しいのだ、そう考えて、わたしはこの命令を実行するだろうか。
という問いを自分に問うてみることです。別に殺人でなくてもよいのです。自分の意志と神の意志とが食い違うとき、自分はどうするか。アクセサリーとしてのキリスト教ではなく、神のご意志を実行しようとする真剣なクリスチャンなら、当然、一度や二度は、直面したことがある問題のはずです。また、これを、会社の命令と自分の良心との食い違いの問題として考えれば、クリスチャンだけの問題ではなく、一般に通じるものでもあります。そうすれば、オーム真理教の殺人事件の意味が、それほど他人事ではないことが、もっとよく分かるはずです。

特に、聖書を神の言葉として、絶対の真理であると信じるクリスチャンは、モーセの殺人命令について、真剣に取り組まねばならないはずです。もし自分がモーセの率いるイスラエルの民の一人であったら、自分はどうしたであろうか。もし、モーセの殺人命令に従っていたとすれば、自分の行為とオーム真理教信者の行為と何処が違うのか。考えてみなければならないはずです。

ご意見、どうもありがとうございました。


なお、反論サイト「 『聖書の間違い』を批判する 」には、このわたしの応答に対する岡野さんの反論が掲載されています。以下は、その反論に対するわたしの応答です。

岡野さんはその反論の中で、次のように、モーセの殺人命令を正当化されました。

 殺人が是ではないのは当然である。だが、当時の国際状況をまったく無視された論調には、疑問がある。 もしモーゼが神の名のもとに民衆を結集しなかったら、いまのイスラエル人は存在しなかったであろう。

 これは戦争放棄をうたっておきながら自衛隊という軍隊を持っている日本と状況が似ている。平和を説い ていたら日本への侵略行為はなくなるわけではないのと同じように、モーゼの時代には、戦争をして相手を 殺さねばイスラエル人が殺される状況だったのである。(岡野さんの反論サイトより)

しかし、本当に、モーセの殺人命令は、「戦争をして相手を殺さねばイスラエル人が殺される状況」で行われたものだったのでしょうか。例を一つあげて吟味してみましょう。「民数記」は次のようにモーセの命令を記録しています。

モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。 「女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。(中略) 」(民数記31:14-18)
このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たちが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発します。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、イスラエルの神ヤーヴェは怒り、モーセに対して、イスラエルの「民の長たちをことごとく捕らえ、ヤーヴェの御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じます。この災害で、2万4千人のイスラエル人が死んだと記録されています。それが、ペオルの事件とその「災害」です。(民数記25:1-9)

このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こした…」からだ(民数記25:17, 31:1-2)といいます。この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」(民数記31:3)、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。

ところが、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきます。このため、「女たちを皆、生かしておいたのか」、とモーセは大変怒ったのです。それで、子供もすべて、男の子であれば、殺せ。女も、処女は自分たちのために捕虜にし、他はすべて殺せ。と命じたのでした。そして、分捕り品が山分けされます。

モーセと祭司エルアザルはヤーヴェがモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、ヤーヴェにささげる分は六百七十五匹、…人は一万六千人、そのうちヤーヴェにささげる分は三十二人であった。…部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。「…わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物としてヤーヴェにささげ、ヤーヴェの御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。」モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。…モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、ヤーヴェの御前に、イスラエルの人々のための記念とした。(民数記31:31-54)
このような戦争は、生存のための自衛の戦争ではなく、宗教的情熱によって正当化された宗教戦争であり、強欲な略奪戦争としか、わたしには思えません。

ご意見、再びありがとうございました。