こんにちは、佐倉さん、

『佐倉哲エッセイ集』楽しく拝見させていただいております。 あらゆることについて深い洞察力がおありのようで 自分の勉強が以下に浅いかを思い知らされます。

 ところで佐倉さんに質問なんですが、 佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?

私は洗礼を受けようと何回も考えたのですが、 どうしても決心がつきません。 それは教えのせいではなくて、指導者の力不足でもあり 布教に対しての熱意がなさのようにも感じてしまえるんです。

そんな時に佐倉さんのエッセイ集を拝見して 教義に疑問が起きたとき、ただ信じることが大切としか言わない神父は 本当に信仰があるのか? 少なくとも疑問に対して怒りや無視で答える神父に 嫌気がさしてしましました。

佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました、
よろしくお願いします。

佐倉さんご自身はキリスト教をどうお考えでしょうか?...佐倉さんの率直な意見を聞かせていただけたらと思いメール致しました。
かつてキリスト者であった私ですが、現在、個人的には -- つまり自らの救済とか生き方とかといった地平では -- キリスト教にはもう全然興味がありません。キリスト教の本質は、結局のところ<根拠のない思い込み>であり、キリスト教が生み出す輩はその<ドグマの奴隷>だからです。それは、本サイトにおける来訪者とのやり取りの中でも、意図せずして自然に明らかにされていった事柄の一つです。

心理学的あるいは社会学的問題としてとか、歴史的興味の対象としては、もちろん、オウムやイスラム教などとともに、まったく無視してしまうということもないでしょうが、なにか自分自身のために、キリスト教を学ぶとか、それについて云々するといったことは、もうまったくありません。そのためにわたしの大切な時間を費やすなんの魅力もキリスト教にはありません。

しかし、わたしは、ながい時をかけて自分がキリスト教や聖書を学んでみたことは、結果的に良かったと思っています。キリスト教は、まだ日本人にとっては、鼻をつまんでも飛び込んで<体験入学>してみる価値はあると思います。単なる教養としてではなく、体験的にキリスト教を知っておくこと、つまり、食わず嫌いではなく、自ら食べてみて「本当にまずい」と身をもって知っておくこと、それも決してわるいことではないからです。