佐倉さま

返事ありがとうございました。

日本人がキリスト教を救えるかどうかは私にはわかりませんが、原理主義者たちにしてみれば、大きなお世話といったところでしょうね。私の教会の牧師先生は死後を考えるより生きている今をどうするかの方が大切だよ、それに、天国行くより、地獄に行った方が生前の知り合いだってたくさんいるはずだもん、と、ちょっとあなた、それは牧師にあるまじき発言ではありませんか、というような発言をされる方です。だから、逆に私はこの教会がいいの、と思っていますが、原理主義者たちにしてみるとサタンの教会になっちゃうのかな。

人は結局、信じたいものを信じたいようにしか信じない生き物だと思います。神がわたしたちを創造されたといいつつ本来的な神は人の知ることのできる範囲の外にあるため(という認識を私はもっています)結局自分の都合に信仰をあわせているにすぎないのではないかと自分で思います。神の御旨などとうてい人知のおよぶところにはないと、地上の支配権をさずかったはずの人間の獣性を物語る事件などを見聞するにつれ思うのです。神も結構、人道主義的感覚をもって聖書を読むなら、残酷です。人間の獣性の発露とは神の残虐、残酷性の発露でもあるのかな、原理主義的聖書の読み方を、皮肉をこめて、すれば、ととれなくもないですね。

科学的合理性をもってすれば、(ゲーデルは神の存在を証明したそうですが、私はその文献を読んでいませんし、多分、理解もできないと思います)神はいるともいないともいえないものでしょうが、人間の活動がすべて科学的合理性からだけ成り立っている訳でもないし、寛容であるなら信仰はあっても害のないものだと思っています。

唐突ですが、私の尊敬するキリスト教神学者はジョン・ヒックです。日本では間瀬啓允先生を尊敬しています。間瀬先生からいただいたお便りの中に幼子の信仰は成長すべき、という文章がありました。その通りだと思いました。

ではますますのご活躍を!

由起子

1.ある信仰

日本人がキリスト教を救えるかどうかは私にはわかりませんが・・・
ある人々は、家族の健康やら、商売繁盛やら、大学受験合格やら、恋人探しなどを願って、さい銭箱になにがしかのお金をほおり込んで、神社のまえで祈ります。そういう願い事をするからといって、かれらが、必ずしも、その願い事をかなえてくれる神様が存在することを信じているわけではなく、神がいかなる存在であるかを詮索することもなく、ただ、うまく願い事がかなえば感謝をささげるが、願い事がかなわなかったからと言って、別に神を恨むわけでもなく、また、信仰が足りないなどと自己を責めるわけでもありません。信仰者はここではただ素朴に<願いごと>を祈念するだけです。


2.もう一つの信仰

ゲーデルは神の存在を証明したそうですが・・・
他の人々は、自らの救いが成就するためには、その救いを成就してくれる神が存在しなければならないはずだと考え、神の存在証明などという作業に乗り出したり、神の真の姿は「父と子と聖霊」の三位一体であるとか、神は、人類の罪を償うためにイエスをキリスト(救い主)として地上に送った等々、神の性格や神の救いのプログラムについて平気でいろいろと詮索し、神の存在を信じない者や神が三位一体であることを信じない者やイエスがキリストであることを告白しない者には、きわめて断定的に、救いの道を閉ざします。信仰者はここでは<真理の保持者・番人>として振る舞います。


3.寛容

寛容であるなら信仰はあっても害のないものだと思っています・・・
<願い事>なら各自の心の中のことですが、<世界や歴史>は人類の共有財産です。だから、信仰によって<世界と歴史>に関する真理を得ていると思い込んでしまった<真理の保持者・番人>は、必然的に、黒船外交のように、「言うことを聞くか、さもなくば滅びるぞ」という二者選択をせまるのではないでしょうか。

まことに、「人は結局、信じたいものを信じたいようにしか信じない生き物」という自覚がなければ、寛容が生まれることはないと思われます。