Takeです。

つたない意見に対し整然とした説明をして頂いて感謝です。

ユダヤ教の教義を昇華させる形でキリスト教が生まれた、と思っています。そして、主イエスの十字架による罪の許しが、旧約の怒れる神と新約の許しの神の違いだと思います。

旧約=新約であったなら、イエスがなぜ十字架にかからなければいけないのか、単に無意味な死でしかなくなる訳です。クリスチャンは、ここに神の許しを感じ、だからこそ、十字架のイエスを主とあがめるわけです。つまりイエスが十字架で死んだからこそ、神は「殺せ」と命じないわけです。モーセやヨシュアが神様とどうかかわったかだけならば、そこにイエスの存在はないのではないでしょうか?

貴兄が仰るとおり、(僕の聖書理解と反している)クリスチャンの殺戮の歴史はおかしいと思います。どう読んでも、旧約のみをクローズアップしているような気がします。

聖書に間違いがある、だから聖書は正しくない。と言うご意見なら、僕らが主とあがめるイエスの生き方(これも記載したのが人間ですし、イエスの言いたかった神の御国の到来でない、物質的・現世的な王国の到来を望んでいたようにTakeは読めますので)のみ後を歩むのがクリスチャンだと思うからです。

再度お手間をおかけしますが、Takeの意見に対しご意見をお聞かせくだされば幸いです。

1.新約聖書の神は旧約聖書の神よりもっと残虐です

イエスが十字架で死んだからこそ、神は「殺せ」と命じないわけです。
これはまたずいぶん都合の良い解釈ですが、そんなことは新約聖書のどこにも書いてありません。わたしが「殺せ!と神が命じるとき」において語っている神は旧約聖書や新約聖書の神です。

むしろ、新約聖書で描かれる神は、旧約聖書で描かれる神よりはるかに残虐な形で、人殺しを命じています。読んでいただけなかったようですので、もう一度、ここに引用しておきます。念のために繰り返しますが、これは旧約聖書の引用ではなく、新約聖書の引用です

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。

かれらは大声で言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでもさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

すると、彼らのひとりひとりに、白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。

・・・[そしてついに]私は見た。一羽のわしが中天を飛びながら、大声で言うのを。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。・・・」

[第五の天使がラッパを吹き鳴らすと、]いなごが地上に出てきた。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。そして彼らは・・・ただ、額に神の印を押されていない[すなわち、クリスチャンでない]人間にだけ害を加えるように言い渡された。しかし、人間を殺すことは許されず、ただ五ヶ月の間苦しめることだけが許された。その与えた苦痛は、さそりが人を刺したときのような苦痛であった。その期間には、人々は死を求めるが、どうしても見いだせず、死を願うが、死が彼らから逃げてゆくのである・・・。

[第六の天使がラッパを吹き鳴らすと、]四人の御使いが、人類の三分の一を殺すために解き放たれた。騎兵の軍勢の数は二億であった。・・・騎兵は、火のような赤、くすぶった青、燃える硫黄の色の胸当を着けており、馬の頭は、ししの頭のようで、口からは火と煙と硫黄とが出ていた。これらの三つの災害、すなわち、彼らの口から出ている火と煙と硫黄とのために、人類の三分の一は殺された・・・。

[第七の天使がラッパを吹く鳴らすと、]天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」それから、神の御前で自分たちの座についている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。

「万物の支配者、常にいます神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、[神である主なる]あなたの御怒りの日がきました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さいものも大きいものもすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。・・・」

・・・また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」そこで第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々に、ひどい悪性のはれものができた。第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のようになった。海の中の命あるものは、みな死んだ。第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」

・・・私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」・・・獣と偽預言者]は、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方[キリスト]の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた

(「ヨハネの黙示録」6章9〜19章21節、新改訳)

ここに描写されている<未来のキリスト>の姿は、剣をもって「自由人と奴隷、小さい者と大きい者」を殺す騎馬上の軍神(「王の王」)です。ここに描写されている神の「御怒り」は、旧約の神ではなく、新約聖書「ヨハネの黙示録」の描く神のそれです。いくら旧約聖書の神が怒りの神であるとはいえ、これほど陰険な残虐さはありません。新約聖書は激しい復讐心にかき立てられて書かれた<復讐の書>です。


2.「イエスの生き方・・・のみ後を歩む」とどうなるか

僕らが主とあがめるイエスの生き方・・・のみ後を歩むのがクリスチャンだと思う・・・
オウムの麻原は、あの地下鉄サリン事件をおこす、少し前に「キリスト宣言」をしましたが、かれのハルマゲドンの思想とその実践は、この新約聖書(「ヨハネの黙示録」)に書かれている「イエスの生き方・・・のみ後を歩」んだものです。すなわち「最終戦争」による大量殺人です。自らをキリストであると思い込んだ麻原は、新約聖書(「ヨハネの黙示録」)に書かれているキリストにならって、自ら武器をもって、神の命令である人殺し(最終戦争)を身をもって実践したのです。
わたしはキリストである。

(麻原彰晃、『キリスト宣言:キリストの教えのすべてを明かす』、『キリスト宣言 Part2:再臨・裁き・終末』より、未見)

自分たちの教えに反逆する者は、最終的に殺されて当然、神の目から見て正しい、とするオウムの考えは、新約聖書(キリスト教)の教えそのものです。新約聖書の教えにそのまま盲目的に従えば、自分の生き方をキリストの生き方と同一視する者(「イエスの生き方・・・のみ後を歩む」者)が、自ら武器をもって、自分の教えを信じない者たちを大量殺人(最終戦争)で処理しようとしても、なんの不思議もありません。
弟子たちに対する国家の弾圧は、はたしてこれから迎えるであろうハルマゲドン[新約聖書、ヨハネの黙示録、15章16節]において、日本をどのような方向に導くのか、わたしはそれを考えると非常に悲しく、そして哀れみの心が出てくるのである。

(麻原彰晃、『亡国日本の悲しみ』、197頁)

ここに潜んでいる問題は、「何が正しいか」を、自分で判断せず、神の判断(神の言葉、聖書、教祖の言葉)に従う(「イエスの生き方・・・のみ後を歩む」)ことの危険性なのです。それが、わたしが「殺せ!と神が命じるとき」において提起した問題の本質なのです。


3.問題の本質

貴兄が仰るとおり、(僕の聖書理解と反している)クリスチャンの殺戮の歴史はおかしいと思います。どう読んでも、旧約のみをクローズアップしているような気がします。
聖書の神は旧約の神も新約の神も、人や御使いやキリストに殺人を命じる残酷な神ですが、前回も指摘しましたように、わたしの取り上げた問題の本質は、聖書の神は残酷である、というようなことではありません。問題は、神の命令(聖書に書いてある)なら、神の命令である(聖書に書いてある)という理由で、たとえ人殺しのような命令でも、それを正しいこととして認めるかいなか、というところにあります。

したがって、「イエスが十字架で死んだからこそ、神は『殺せ』と命じない」というような言い訳では、この問題を避けることはできません。

前回は、

旧約聖書の「殺せ!殺せ!」はもしかしたらイスラエルの民の心からの願いだったのかもしれません。先住民を駆逐して豊かな土地を自分達だけのものにしようという。
と言われましたので、わたしは、てっきり、
(1)神は殺人を命令したのではなかった、聖書は間違っている
と言われているのかと思いましたが、今回は、「イエスが十字架で死んだからこそ、神は『殺せ』と命じない」と言われているので、これでは、まるで、
(2)旧約の時代では神は殺人命令を行ったが、イエス以後神は殺人をしなくてもよくなった
と言われているようです。どちらなのですか、ハッキリさせてください。後者ならば、場合によっては、神は女や子どもさえも殺す、殺人を命じる、ということを認めることになります。この問題は、言い換えれば、もしあなたがモーセの指導する古代イスラエルの民の一人であったなら、聖書が述べているように、殺人行動に参加するのは神の目から見て正しかった、と考えておられるのかどうかという問題なのです。聖書の言うように、旧約の時代で神は殺人命令を行ったのですか?