私はキリスト教徒ではありません。むしろ、宗教全般に批判的です。信仰の自由はかまいませんが、世の中を見ると、宗教はろくな影響を与えていないと思います。たまたま、今、大学で創世記と進化論についての論文を書いている最中です。つくづく、聖書の矛盾と残酷さに呆れているところです。

しかしながら、聖書に書かれていることを一言一句信じるような馬鹿な事をいない限り、 お話として、教訓として読むだけならいいとも思います。確かに生物学的、物理学的に見ると、笑えるような話の聖書です。しかし、例えば、こどもが「赤頭巾ちゃん」を読んで、あぁ、親の言う事は聞かなけ ればいけない、というのを学ぶように、聖書を読むことによって、例えば人間は独りでは生きていけ ないのだな、助け合いが必要なのだな、ということを学べるのではないでしょうか。

だからといって、聖書を勧めはしないですけれど。人間優位主義の人間中心世界を説いていますから。実話としてではなく、寓話として聖書を読むのであれば、聖書批判はむしろばかげていると思います。「赤頭巾ちゃん」を科学的に分析して、批判しているのと同じです。モーゼ(誰でもいいのですが)が世の中の秩序を作ろうと書いた物語が、どこかでいつの間にか妙な方向に曲がっていってしまったのだと思います。

ここ、アメリカには「我々はアダムとイヴから来た。サルが祖先なんかではない。」という人間が先進国の割に、多く存在します。何だか笑えます。と同時に不安でもあります。つまりは人間・白人優位が奥の奥に根付いているという事になりますから・・・。ともかく、聖書は間違っている、というのを証明する前に、聖書はただのお話に過ぎない、というのを理解してもらうほうが大切だと思います。

日本語がおかしくてごめんなさい。 それでは、また。

小石祥子

実話としてではなく、寓話として聖書を読むのであれば、聖書批判はむしろばかげていると思います。
まったくその通りだと思います。

しかし、人々が聖書を寓話として読むことのできないのには、それなりの事情があるのです。ひとつは、聖書を書いた人たち(たとえば創世記や出エジプト記や福音書の著者たち)が歴史的事実としてそれらを書いているということがあります。はじめから意図的に創作として書かれた「赤頭巾ちゃん」とは事情が異なるわけです。

人々が聖書を寓話として読むことのできないもう一つの事情は、それが救済の根拠となっているということがあります。たとえば、イエスは彼を信じる人々の<罪の許し>と<永遠の命>のために、十字架にかかって死に、三日後に復活した --- ということがもし歴史的事実でなければ、キリスト教の言う意味での救済というものはなくなってしまいます。パウロは語ります。

キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。・・・キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(コリントの信徒への手紙、15:13〜17)
宗教は単なる道徳ではありません。ひとびとが、聖書にいかに荒唐無稽なことが書かれていても、それを事実であると信じなければならないのは、救済という実存的な理由があるからです。

このような事情があるために、ひとびとは聖書を寓話として読むことができないのです。