佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

巨神さん

00年9月30日


原本批判でなければ、意味がないのでは?


はじめまして、巨神と申します。

立場を説明します。私は無宗教です。聖書を信ずるのはあまりいい事ではないと思います、というより個人的に感性としては合わないと思っています。なぜ興味があるかというと、歴史が好きなのでその関係です。ですからあまり深い知識はまだありませんので、下らないメールだと思われたら無視してもかまいません。

それはいいとして、なかなか楽しく読ませてもらっています。(まだ全部は読んでいませんが)しかし、ちょっと気になった事があります。別の方も言っておられるようですが、このHPのテーマとして

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味すること

とありますが、このままではあんまり意味が無い気がします。(けなしている訳ではありません。)というのは、

第一に、ここにある”聖書”というものがなにを対象にしているかが明確でないと思われます。いわゆる原本のみを聖書とするのか写本をも聖書とするのか。であるから吟味は難しいのでは?

第二に、聖書を信仰していない者にまでも神の霊に導かれるのでしょうか?そもそも導かれないならどうなるのでしょう。これをはっきりさせないと吟味は難しいのでは?これについては恥ずかしながら実験しました。聖書を書き写したり、訳してみたりしましたが間違えだらけでした。導かれませんでした。(疑問の答えが出てしまった気が・・・)

第三に、原本を参照に出来ないのに”すべて正しく、いかなる間違いも含まない”なんて証明できないので、結局なんとも言えないのでは?

といった疑問がでてきます。それに只でさえ、英語から日本語にするだけでも、完璧に訳す事が出来ない(表現の問題など)のに様々の言語に訳されているのだから大なり小なりの差が出てきてしまうのではないか。(間違えているとかではなく正しくないとかでもなく)つまり言いたいのは、”間違い””正しい”というのが一字一句を想定しての事か、内容を想定しての事かによって相当な差が出てくるのでは?第三の疑問と関わってきますがこれが第四の疑問です。

矛盾や改竄個所を指摘して検証するのは現在出来る”吟味”では最大限のように思えますが、いわゆる神が言った事を歴史的に学術的に矛盾があっても”正確”に書いたのかもしれないし、改竄個所も、その時代に合う様にまさしく導かれて書いたのかもしれない。長くなったので、私の勝手な提案をいたしますと、貴方のHPのテーマは非常に妥当であろうと思います。が、もう少し掘り下げてみてもいいのではないかと思います。

いちおう付け加えると、根本主義者の弁護をしているわけではないので。(弁護になっていないけど)ちなみに個人的には、いろいろな資料や背景などが盛り込まれているのが”聖書”なのですから矛盾が発生するのは当たり前かなと思います。それに、上記の主張すらも人間が言っているのだから間違いもあるだろうと思う。このことばも導かれて言っているといわれたら困るけれど。

稚拙な文章を本当に長々とすみませんでした。いいたいことを伝える事は難しい。自分でも自己嫌悪します。誤解する箇所もあるでしょうが勘弁してください。

大変興味深いHPなので、がんばってください。





巨神さんへ

00年10月22日



(1)吟味の対象となる聖書とはどの聖書?

原本のみを聖書とするのか写本をも聖書とするのか。

この問題については、何度もおなじようなお便りを頂いていますが、わたしの立場は明確です。わたしの吟味の対象となるのはわたしたちが手にする聖書です。こういった疑問がおきるのは、巨神さんが信者ではないからです。信者の立場に立てば、日々の信仰生活の指針となる自分たちが手にする聖書こそが、神の言葉であるところの聖書でなければならないのです。(「河村さんより」を熟読してください。)


(2)「神の霊に導かれる」ことを吟味する?

聖書を信仰していない者にまでも神の霊に導かれるのでしょうか?そもそも導かれないならどうなるのでしょう。これをはっきりさせないと吟味は難しいのでは?これについては恥ずかしながら実験しました。聖書を書き写したり、訳してみたりしましたが間違えだらけでした。導かれませんでした。(疑問の答えが出てしまった気が・・・)

神の霊などというものは、信仰の対象であって、実験の対象にはならないだろうとおもいます。わたしが吟味する対象はあくまでもわたしの認識の届く範囲内の対象に限られます。すなわち聖書、わたしたちが手にする聖書です。神の霊などというわけのわからないものをわたしは吟味の対象にはしません。にもかかわらず、わたしは「聖書は神に導かれて書かれたのではない」という結論を導出することができます。なぜでしょうか。理由は単純明晰です。

(ア)信仰:神に導かれて書かれた聖書には間違いがない
(イ)事実:しかし、聖書には間違いがある
(ウ)結論:ゆえに、聖書は神に導かれて書かれたのではない。

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という信者の主張には、前提(ア)が含意されています。わたしは、神の霊などというものには見向きもせず、ただただ、聖書に間違いがあるかどうかだけを調べます。そして、聖書には間違いがある事実(イ)が発見されました。そうすると、どういう結論が導かれることになるでしょうか。そうです、聖書は神に導かれて書かれたのではないという結論が必然的に導きだされるのです。

このように、神の霊などというものを吟味しなくても、「聖書は神に導かれて書かれたのではない」という結論を導出することができるのです。


(3)正しいとは?間違っているとは?

いわゆる神が言った事を歴史的に学術的に矛盾があっても”正確”に書いたのかもしれないし、改竄個所も、その時代に合う様にまさしく導かれて書いたのかもしれない。

おっしゃっていることが少し解りにくいのですが、ここでは、二つの異なった問題提起が混在していると解釈できます。ひとつは、正しいとか間違っているとかの基準は歴史的に相対的で、それぞれの時代では正しかったのかもしれないという問題提起と、もう一つは、聖書は神の間違いを「正確に」そのまま伝えたのかもしれないという問題提起です。

まず、前者について言えば、わたしが「間違っている」と言うとき何を意味しているかは、すでに「はじめに」においてかなり明確に規定しています。要約すれば、

(ア)同じ事柄についての二つの記述の間に矛盾があれば、少なくとも一方は必然的に間違っていることが判明する。

(イ)わたしたちが確信している知識(通常、科学的知識)と矛盾していれば、たとえ聖書の記述であろうと、それは「間違っている」と判断しなければならない。

ということになります。詳しくは、「はじめに」を熟読してください。

つぎに、後者についていえば、聖書には間違いがあるかもしれないが、それだけでは、聖書が神に導かれて書かれたことを否定できない、という立場に関する問題です。これは(2)で挙げた信仰の前提

(ア)信仰:神に導かれて書かれた聖書には間違いがない

を否定する立場です。神に導かれて書かれていても、聖書に間違いがありうる、というわけですから。そういう立場から言えば、聖書に間違いがあることが判明しても、聖書が神によって導かれたことを否定する結論を導出することはできません。つまり、(2)の論理は通用しないのです。それはまったくその通りです。

しかし、その場合、今度は、たとえ聖書が神に導かれて書かれていたとしても、ただ神に導かれて書かれているというだけでは、それは信用できない、という事態になることを受け入れなければなりません。すなわち、

(ア)信仰:神に導かれて書かれていても、間違いがないとはいえない
(イ)信仰:聖書は神に導かれて書かれている
(ウ)結論:ゆえに、神に導かれて書かれが聖書に書かれているからといって、それを信用することはできない。

ということになります。「聖書は神に導かれて書かれている」ことを守護するために、「神に導かれて書かれていても、間違いがないとはいえない」とすると、<神に導かれている>ということ自体の価値がなくなってしまうわけです。


おたより、ありがとうございました。


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