佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

さん

00年9月1日

来訪者のメールを読んで

私は李と申します。聖書に関する何かの情報を得ようとして検索したら貴方のホームページがあって入り、読みました。以下の文章です。

問題は、まだキリスト教の最大の欠点に気がついておられないことです。すなわち、キリスト教は、まだ、罪の力からだれ一人として救ったことがないという事実です。新約聖書は、キリストを信じることによって救われるという約束をします。(1)信じる人は罪の刑罰から赦されると約束します。しかし、人を実際に罪の力から解放する方法は持ちません。しかも、橘さんのもとめておられるものは、まさに、キリスト教が与えることのできない、罪の力からの解放(「即刻解決をしなければならない、といったもの」)なのです。

すでに多くの人がもう気がついてしまったように、橘さんも、やがて、その事実に気づくことでしょう。そして、人間は愚かな存在ですが、その愚かさを持ったまま、それでも、キリスト教なしに人間は何とかやっていくことができる知恵も、また、身に付けているという事実に気がつくことでしょう。そして、キリスト教を信じていてもいなくても、人間は大して変わらないという事実に気がつくことでしょう。つまり、キリスト教は人類にとって、あってもなくてもよいものであることに気がつくことでしょう。あってもなくてもよいものなら(2)無理をして、本当はなにも知りもしない事柄(神、霊界、あの世、永遠の命、原罪、十字架による贖罪、聖霊の導き、等々)について、まるで知っているかのごとく確信し、振る舞う必要もないのです。

(「作者より橘さんへ 99年9月26日」)

(1) 私は先ず風について話したいと思います。風はどこから来てどこに行くのか分かりませんが、風が吹くと確かに人は感じるし、また、風が強いと木の葉っぱが揺れます。さらに激しく吹くと木が抜けます。イエス様はその当時、一番知性人で会った二コテモに御霊の御業を易しく自然の現象を用いて話、助けられました。ニコテモは宗教指導者であり、パリサイ人、イスラエルの先生です。私が言いたいのはそのように実際、信仰生活をしていて、人を教える立場にいても実際神様を体験してない人がいるわけです。それは何を言うかというとこの世の知識、(例え聖書の知識でも、)そして、能力などがその人を救いに導くことは出来ないということです。

風の話に戻りましょう。風は御霊の例えです。聖霊様が人に働くとその人は変わります。しかし、隣にいる人もその人が変わったことは分かるがなぜ変わったか、いつ変わったかは分かりません。聖書の中にイエス様の布に触って病が癒される出来事がありますが大勢の群集がイエス様の周りにいたので彼らも触ったでしょう。しかし、その女性一人が直りました。イエス様は彼女に言いました。あなたの信仰があなたを治したのです。私は日本でやくざが変わってクリスチャンになった話を聞いたことがありますがまさにそのとおりです。

私も情欲におぼれ惨めな人生を過ごしていたものでした。しかし、聖書勉強を通して自分の罪を悟るようになりました。過去聖書とであった時はみずみずしい内容だったが時になって聖書が生きておられる神様の御言葉として信じるようになりました。そして、自分の罪を告白し、許しを頂きました。もちろん信仰によって。そして、その生活から離れるようになり、今は過去私のように情欲おぼれ惨めに生きている人々を聖書の御言葉で助けたい旨でいっぱいです。そして、何人かの人に聖書を教えています。彼らは徐々に変わっています。聖霊様が働くとその人は罪を悟り、悔いる心が生じます。そして、信仰も生じます。信じるとその人の心に聖霊様が望まれます。それで、聖霊の導きが伴います。そのときからその人は変わります。罪を犯したその場所から離れるようになります。徐々に変えられていくのです。これが信仰の秘密です。しかし、罪を犯しても悔いる心をもつどころか、より罪を犯す人には聖霊様が働くことが出来ません。また、聖書を知らないと罪を悟ることも出来ません。ここで罪というのは神様がおっしゃる罪です。罪の許しはあります。


(2) もう1つを話しましょう。思い込みと信仰の違いです。ヘブル書を読むとイスラエルは信仰によって紅海をわたりました。しかし、エジプト人はそれを試しましたがみなおぼれて死にました。思い込みの実は精神的な疲れです。或いは精神的に強くなるかもしれません。しかし、信仰の実は心の平安です。実際に神様を体験します。聖霊様も、導きも、永遠の命もあります。

もう1つ:聖書を読むときには神様の側で読まなければなりません。なぜ、神様がこう命じたか?なぜこういう事件が起こったか?神様の御胸は何か?こう申しますのはそうでないと聖書が変質してしまうからです。

私は聖書を研究する人は必ず信仰をもつようになると考えています。なぜなら、聖書は真理だからです。時間があるときもう一度訪問します。

それでは、

1つ感謝したいのは私は日本にクリスチャンが少ない理由として江戸時代にすごっく迫害されてそれで少ないと思ったのですがいろいろと日本の歴史背景など学びまして、日本人に対する理解が深まったこと感謝します。





さんへ

00年9月23日


(1)キリスト教の信仰は本当に罪の力から人を解放するのか

何人かの人に聖書を教えています。彼らは徐々に変わっています。聖霊様が働くとその人は罪を悟り、悔いる心が生じます。そして、信仰も生じます。信じるとその人の心に聖霊様が望まれます。それで、聖霊の導きが伴います。そのときからその人は変わります。罪を犯したその場所から離れるようになります。徐々に変えられていくのです。これが信仰の秘密です。

わたしも、長い間クリスチャンでしたから、聖霊によって「徐々に変えられていく」という教義を信じていたものです。しかし、十年以上もクリスチャンをやり、自分自身や他のクリスチャンの信仰生活の実体を長い間眺めて、ついに認めざるを得なかった事実は、どんなに深く悔い改めようが、どんなに強い信仰心を持っていようが、聖霊によって「徐々に変えられていく」という教義はうそであって、クリスチャンは聖書がいうような罪の力から解放されることは、現実として、ないということです。

わたしの知っているすべてのクリスチャンはいまだ彼らが罪の力の下にあることを認めています。わたし自身はクリスチャンであったころ、信仰者のためのカウンセリングのような役割もしていたこともあって、このことについては生々しい実感を持っています。いかに多くのクリスチャンが自分はクリスチャンとしてあるべき生活をしていないという事実に苦しんでいることか。そして、それは、自分自身の問題であるだけでなく、自分が相談すべき教会の長老や牧師自身の問題でもあったのです。結局、パウロが述べているように、終末が来て、この肉のからだが一瞬にして「新しいからだ」に造り変えられるという(夢のような)ことを信じるしかありませんでした。

すなわち、わたしの知っているかぎり、クリスチャンは罪の力から解放されてはおらず、「徐々に変えられていく」という約束はいまだ実現されていないのです。歴史を振り返っても、イエスの死後、二千年経っても、まだ、罪の力から解放されたと証言するクリスチャンは一人も存在していないのです。李さんや李さんの教え子は、本当に、罪の力から解放されているのですか。それとも、「徐々に変えられて」、やがて罪の力から解放される日が実際にやって来るとまだ信じておられるのでしょうか。もしそうでしたら、歴史上、いかなるクリスチャンもできなかったことを、李さんや李さんの教え子だけはできると信じられるその根拠を教えてください。


(2)クリスチャンは特別ではない

私は日本でやくざが変わってクリスチャンになった話を聞いたことがありますがまさにそのとおりです。 私も情欲におぼれ惨めな人生を過ごしていたものでした。しかし、聖書勉強を通して自分の罪を悟るようになりました。過去聖書とであった時はみずみずしい内容だったが時になって聖書が生きておられる神様の御言葉として信じるようになりました。そして、自分の罪を告白し、許しを頂きました。もちろん信仰によって。そして、その生活から離れるようになり、今は過去私のように情欲おぼれ惨めに生きている人々を聖書の御言葉で助けたい旨でいっぱいです。そして、何人かの人に聖書を教えています。彼らは徐々に変わっています。

それぐらいの変化なら、なにもキリスト教を信じなくても、イスラム教でも仏教でも、あるいはあやしげな新興宗教でも体験することです。また、何も宗教に頼らなくても、ヤクザから足を洗い、「情欲におぼれ惨めな人生」から立ち直る人々は、数えきれないほどいます。クリスチャンがいうような「聖霊によって変えられた」ぐらいの変化なら、聖霊の助けがなくても、宗教がなくても、人々との新しい出会いや体験から、多くの人が経験しているものです。

実際の生活のなかでは、クリスチャンでなくても、クリスチャンのように素晴らしい人もいれば、クリスチャンでなくても、クリスチャンのようにひどい人間もいるのです。クリスチャンは特別ではありません。もし、キリスト教が、それぐらいのことに気がつかず、まだ、クリスチャンは特別であると傲慢にも思い込んでいるとしたら、まだまだキリスト教は悔い改めが足りません。


(3)その他

・・・・思い込みの実は精神的な疲れです。或いは精神的に強くなるかもしれません。しかし、信仰の実は心の平安です。実際に神様を体験します。聖霊様も、導きも、永遠の命もあります。

・・・・聖書を読むときには神様の側で読まなければなりません。なぜ、神様がこう命じたか?なぜこういう事件が起こったか?神様の御胸は何か?こう申しますのはそうでないと聖書が変質してしまうからです。

・・・・私は聖書を研究する人は必ず信仰をもつようになると考えています。なぜなら、聖書は真理だからです。

心の不安は無知から生じるものです。本当は何も知らないのに、まるで知っているかのごとく「聖霊様も、導きも、永遠の命もあります」と信じ込んで、無知にも関らず「心の平安」を得たりするのは、知的良心の麻痺状態をあらわしています。知らないときは知らないことを認めるのが知的良心というものです。信仰は知的良心を麻痺させます。

聖書は、徹頭徹尾、人間の立場から読まねばなりません。どんなに「神様の御胸は何か」と尋ねても、人間が人間であるかぎり、それは、「神様の考えはこうであろう」と考える人間の考え、でしかないからです。そのことに思い至らなければ、ひとりの人間のひとつの解釈にすぎないものを、「神の考えそのもの」だと思い込んでしまうでしょう。クリスチャンが、自らを神と非信仰者の仲介者の立場に置き、しばしば、非信仰者に対して上から見下げるような態度で臨むのは、彼らがそのことに気がついていないからです。

わたしは、聖書に間違いがあること、したがって、聖書は真理ではないことのさまざまな根拠を示しました。わたしは、人々が「聖書は真理だ」と信じるためには、彼らが聖書を研究しないこと(自分の都合に悪いところには目をつむる)が必要だと思います。実際、わたしの経験から言っても、クリスチャンは、聖書に関する書(信仰者に都合のよいことしか書いてない)は読みますが、聖書そのものはあまり学びません。教祖信仰を支えているものが教祖に対する無知であるのと同じように、聖書信仰を支えているものは、聖書に対する無知であり、真実を知ろうとする探求心の欠如であると思います。


おたより、ありがとうございました。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 
あなたのご意見、感想、質問は sakura@j-world.comへどうぞ

著者及び 著作権について