佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

IXTYSさんより

00年8月3日

始めまして、聖書の矛盾点として先日『カインの後妻』について質問を受けました。別に特別考えませんでしたが、殆ど同じ答をしました。 このような質問を受けた時、ある英語の伝道ハンドブックには、こう答えなさいと書いてありました。

『もし、これが矛盾しているとして、あなたが信仰を持たれることとどう関係があるのですか。?』

今から二十数年前、インドで講演旅行をした事があります。 著名な微生物学者を講師にしての講演旅行でした。 ところが、過度の緊張から講師が講演を前に倒れてしまいました。 残るのは私一人。 覚悟を決めて、講談に立ちました。

その時、インドのパートナーの語ってくれた言葉が忘れられません。

『Mr. so and so, don't worry about question. Most of the questions areraised for the sake of question. They just want to show how they are knowledgeble about biotechnology. They must be satisfied with your being paid attention and respect to them.』

そこで、あらゆる質問者をこころから褒め上げました。 『このような高度に学問的な質問に感謝します。』 彼らは満場の席で誉められ、満足そうでした。 要するに殆どの質問者は自分を認めて欲しいから手を上げるのだといいます。

聖書研究会での質問も殆ど同じではありませんか。 『それは大変本質に触れた良い質問です。』 すると、殆どの人は自尊心が満足され、おとなしくなります。 このような質問も別に他意があってとは思いません。

このような意地悪い質問には、逆に『あっけらかん』として『わかりません。』と答えてみてはどうでしょうか。

別に流暢に答えたからといって信じるようになるとも思われません。 それよりも、そんな些細な事を全く意に介しない堂々とした態度こそが、最高の証しではありませんか。 『神の霊は臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのです。』 この『慎みの霊』という言葉が大好きです。 多くの聖書に関する質問の真意は『質問のための質問』に過ぎないと思うのですが、如何でしょうか。

IXTYS





作者よりIXTYSさんへ

00年8月19日

このような質問を受けた時、ある英語の伝道ハンドブックには、こう答えなさいと書いてありました。

『もし、これが矛盾しているとして、あなたが信仰を持たれることとどう関係があるのですか。?』

矛盾しているということは、二つの主張が同時に成立しないこと、すなわち、一方が成立とすると、他方は必然的に成立しないことを意味します。つまり、聖書に矛盾があるということは、聖書に間違いがあることを意味します。聖書に間違いがあるということは、聖書で主張されていること、たとえば、「神は存在する」、「イエスの十字架は人間を罪から救う」、等々の主張を、ただ、聖書に書かれているからというだけで、信じてはいけないということを意味します。つまり、聖書の矛盾は、聖書を信仰の対象としてはならないこと、を意味します。


その時、インドのパートナーの語ってくれた言葉が忘れられません。

『Mr. so and so, don't worry about question. Most of the questions areraised for the sake of question. They just want to show how they are knowledgeble about biotechnology. They must be satisfied with your being paid attention and respect to them.』

そこで、あらゆる質問者をこころから褒め上げました。 『このような高度に学問的な質問に感謝します。』 彼らは満場の席で誉められ、満足そうでした。 要するに殆どの質問者は自分を認めて欲しいから手を上げるのだといいます。・・・多くの聖書に関する質問の真意は『質問のための質問』に過ぎないと思うのですが、如何でしょうか。

質問者に対して、わたしにはとてもそんなことはできそうもありません。わたしにできるのは、できるだけ明晰に、わたしの考えることを語ってみるだけです。


このような意地悪い質問には、逆に『あっけらかん』として『わかりません。』と答えてみてはどうでしょうか。

別に流暢に答えたからといって信じるようになるとも思われません。 それよりも、そんな些細な事を全く意に介しない堂々とした態度こそが、最高の証しではありませんか。 『神の霊は臆する霊ではなく、力と愛と慎みの霊なのです。』 この『慎みの霊』という言葉が大好きです。

IXTYSさんは、わたしのサイトを、なにかキリスト教の護教でもやっているサイトでもあるかのごとく、ひどく誤解されているのではないでしょうか。


おたより、ありがとうございました。


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