佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

はせがわ 富雄さんより

00年7月14日

 あなたの研鑚と博識にはただただ敬意を表するものです。私はクリスチャンですが、それほど熱心ではなく、疑いばかりが頭をもたげてくるものです。

 イエスの誕生、十字架の死と復活・・・このキリスト教の根本原理についても疑いを持っています。私の理性では到底理解できません。

 ただ私の心は弱く、迷い、迷うことが多い日々でしたし、今もそうです。そんな私が何かにすがろうとしたとき、キリスト教の神がいたのです。聖書の言葉があったのです。聖書には理解に苦しむ個所や矛盾を感じるところもありましたが、あなたの「聖書の間違い」を読ませていただき、今さらのようにその多さに驚いています。

 私はキリスト教の神に寄り頼みながらも、創造主は、私に疑いを持つ理性も備えてくださったのだと、「疑いの心」を否定したくないのです。「疑いの心」を持ちながら教会に通うということは悩みです。悩みが一つ増えたようです。

 私の感想では、あなたが指摘されているように旧約の神とキリストは”別人”のようです。旧約はイスラエル地方の伝説と古代人の生きざまを伝えています。キリストは浮世離れの説教、逆説を説いています。

 現実生活でどろどろとした人間関係、仕事・・・などに振り回され、それでもサバイバルの執念を燃やし、抜き差しならないところに突く進むとき(旧約時代と同類では?)一歩下がってキリストの浮世離れの説教を聴き、賛美歌を歌うとき、自然の中にいるような、または一幅の名画を見たり名曲を聞くような心の洗われる思いがします。救われた気持ちになります。

 「疑いの心」を持っている私ですので信仰も含めて生きざまにブレーキがかかり他人に力強く伝道できませんし、私の信仰そのものも揺らいでいます。それでもマインドコントロールにかかているのかもしれませんが、私はキリストの神にとらわれています。

 私の信仰自体が矛盾をはらんでいます。この矛盾はいつ解けるか、それとも死ぬまで解けないかもしれません。





作者よりはせがわ 富雄さんへ

00年8月5日

支配者の前での沈黙

私の信仰自体が矛盾をはらんでいます。この矛盾はいつ解けるか、それとも死ぬまで解けないかもしれません。

世界にはいろいろな神話があって神の物語が語り継がれています。その神の性格を調べてみますと、聖書の神のもっとも顕著な性格は人間を支配する絶対王であるということです。これは、聖書における神話を語り継いできた人々の歴史や地域と深く関っていると思います。

古代日本人が与えた日本の最高神アマテラスという神の性格は、古代イスラエル人が彼らの神に与えた性格とかなり異っています。アマテラスは、人間が罪を犯すとご立腹されてお姿をお隠しになる、というずいぶんかわいらしい神様ですが、聖書の神の性格はずいぶん違います。

古代イスラエル人は、世界最古と考えられる強大な王権国家を築き上げたエジプト地域とメソポタミア地域の間に挟まれた、小さな弱小民族として存在していました。聖書はしばしばこのエジプトとメソポタミアの諸国とその神々を彼らを脅かす敵として記述しています。そのためでしょう、古代イスラエル人は自分たちの神をエジプトやメソポタミアの王権国家の王とよく似て、それらに対抗する、理想化された「絶対的支配者・軍神」としての性格を持っています。聖書が、聖書より古い古代イスラエル人の書である『ヤーヴェの戦いの書』を引用しているのも、そのことを示していると言えるでしょう。

聖書の神はなぜ「最強の王者」としての性格を持つようになったのか。なぜそのことが特に強調されるのか。それは、長い間エジプトとメソポタミアそして後のローマ帝国など強国に囲まれて、翻弄され続けてきた弱小民族の立場がそうさせたのだと思われます。今虐げられている自分たちを救ってくれる本当に強い王がいる、やがてその王が支配者となって、わたしたちの敵を滅ぼしてくれる、という強い願いです。彼らにとって、「王」と「救い主」が同じ言葉(王=油を注がれた者=メシア=キリスト)であるのも決して偶然ではありません。

その弱小民族が隣人諸国を支配下に置く強大な帝国主義国家をつくりあげたとき(ダビデ・ソロモンの統一王国時代)、そのとき、古代ユダヤ人たちは彼らの神をどのように性格付けしたか。

なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声を上げるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束してヤーヴェに逆らい、ヤーヴェの油注がれた方(王=ダビデ)に逆らうのか。「我らは、枷をはずし 縄を切って投げ捨てよう」と。

天を王座とする方は笑い ヤーヴェは彼らをあざけり、憤って、恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される。「聖なる山シオン[エルサレム]で わたしは自ら、[ダビデ]王を即位させた。」

ヤーヴェの定められたところにしたがってわたしは述べよう。ヤーヴェはわたしに告げられた。「おまえ[ダビデ]はわたしの子 今日 わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし 地の果てまで、おまえ[ダビデ]の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち 陶工が器を砕くように砕く。」

すべての王よ、今や目覚めよ。地を治めるものよ、諭しを受けよ。畏れ敬って、ヤーヴェに仕え おののきつつ、喜び踊れ。 [わが]子[ダビデ]に口づけせよ、ヤーヴェの憤りを招き、道を失うことのないように。ヤーヴェの怒りはまたたくまに燃え上がる。

(詩編 2)

聖書のこの神の性格は、キリスト教にもそのまま引き継がれていて、「愛」とか「赦し」とかいろいろいっても、結局、聖書における信仰が神への従順を意味することになっているのは、古代イスラエル人が作りあげたこのような神の性格に拠ります。神の性格は人間を支配する絶対王であることが新旧の聖書の大前提となのです。

神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一不死の存在、近寄りがたい光の中に住まわれる方・・・。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。

(テモテ1,6章)

そして、聖書の神は絶対的支配者としての性格を与えられているために、自分に従わないものを赦すことはありません。神の命令への従順を示さないものは最終的に永遠の「火の池」に投げ込まれるわけです(ヨハネの黙示録、20章)。

聖書の記述に関して、正しいと思われるものは「正しい」、間違っていると思われるものは「間違っている」、とクリスチャンがはっきり語ることができないのには、本当に深い理由があります。人間が自由に真理を探求することは、聖書の神の性格上、許されていないのです。そこは支配者への従順がすべての価値に優先する世界なのです。ましてや、自分の人生の意味や価値がその支配者の手に握られているとすれば、どうしてそれができるでしょうか。家庭の生活を支える給料袋をくれる会社の支配者が間違っていると思われるときでも反対できず、自分の意見を自分の胸のなかに収めて沈黙してしまう事情には同情すべきものがあります。


おたより、ありがとうございました。


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