佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

水野さんより

00年4月4日

思考の限界について

こんにちは。水野です。ご返答いただき、ありがとうございました。

(1)「否定できない」と「無視できない」

僭越ながら、佐倉さんの返答は、「肯定も否定もできない事柄はたくさんある」 という説明にはなりますが、 わたしが言った「肯定も否定もできない事柄は無視できない」 という考えに対する反論にはなっていない、と思います。佐倉さんの論理は、

物事を考えるとき、(肯定も)否定(も)できないことすべてを「無視すべきでない」とすると、おそらく、わたしは何一つ考えることはできなくなる
から、(それでは困るから?)「肯定も否定もできない事柄を無視してもよい」 というように聞こえ、論理的とは思えません。

また前回わたしが述べた、

物事を考えるとき神の存在する可能性を無視すべきではない
という主張は、佐倉さんが言われたような
「聖書の神の存在の可能性だけが『無視すべきでない』という偏見」 から出たものではありません。
わたしは聖書に限らず、佐倉さんが列挙した宗教を含む古今東西すべての宗教について、 それらが奉じる神々もまた聖書の神と同様、 たぶん肯定もできないが否定もできない存在だろう、と思っています。

たまたまわたしは聖書について考えることが多いので聖書の神を例に出したまでで、 もしわたしが近頃話題になった法の華三法行について真剣に考える者であれば、 「物事を考えるとき天声の存在する可能性を無視すべきではない」と言ったでしょう。 「自分は天声を聴くことができる」とその教祖が言う天声など存在しない、 とする明確な証拠をわたしは出せないだろうからです。 つまり、わたしが「物事を考えるとき神の存在する可能性を無視すべきではない」 というときの「神」とは、この世の宗教が奉じるほとんどの神に適用できるものです。

そして、それらの神々は超人的存在として定義されている以上、肯定も否定もできず、 ゆえに人間のまわりは存在不可知なものだらけということになりますが、 だからといって佐倉さんが書かれたように、

物事を考えるとき、(肯定も)否定(も)できないことすべてを 「無視すべきでない」とすると、おそら、 ・・・何一つ考えることはできなくなる
ということにはならないと思います。 むしろ肯定も否定もできないからこそ、考える余地が残っているのではないでしょうか。 もし神の存在が明確に肯定できるなら、求められるのは考えることより従うことになり、 もし否定できるなら、もはや神などという概念にこだわる必要はなくなるからです。 つまりひとは、神を肯定も否定もできないからこそ、 「何一つ考えること(が)できなくなる」ことなく、 逆に、自由な立場から吟味批判ができるようになるはずです。 ただし、この「吟味批判」は、神が肯定も否定もできないことを始点とする以上、 次のような限界があることにも気付くはずです。すなわち、
人間は宗教について考えるとき、「人間的見地からすれば、・・・・・・・・・・と思われる。 ただし、正しいかどうかは分からない」としか言えない
これについては次で述べます。


(2)人間的見地と神の見地

神について無知であるかぎり、「神の見地」などというのは、どこまでも、 「これが神の見地であろう」と考える人間的見地でしかあり得ないでしょう。 だから、「(神の見地では)正しいかどうか」などと自問することは、 わたしにとっては無意味です。
確かに神について無知である以上、人間は神の見地についても知ることはできません。 したがって「神の見地とはこうだ」という定義は人間的憶測であろうと推論されます。 ただし、だからといって、人間の憶測外にある神の見地がまったくあり得ない ということにはなりません。神の存在が肯定も否定もできない以上、 もし神が実在すると仮定すれば、当然そこには、 人間的見地とは別個の、本来の意味での「神の見地」があるはずだからです。

したがって、たとえ「神の見地とはこうだ」という定義ができないにしろ、 自分の考えが神の見地で正しいかどうかを自問することは、 わたしにとって「無意味」ではありません。 なぜなら、人知とはまったく別の神の見地があり得るとすれば、 人間的見地から考えたどんな正論も覆される可能性が生じるからです。

確かに人間は人間的見地から神に対して客観的な批判を試みることができます。 現にわたしも、前回『神が人間に関わることの不合理』について述べました。 しかしそれが人間的見地に過ぎず、覆される可能性がある以上、 わたしはやはり次のように付け加えざるを得ないのです。すなわち、 「この考えが究極的に正しいかどうかはわからない」

この認識はあまり喜ばしいものではありませんが、悲観することでもないと思います。 喜ぼうが悲しもうが、人間の思考はそういうものなのであり、これ以外にないからです。 わたしは前回自分の論旨を強調するため、こういう限界を持つ人間の思考を 「はなはだ貧相なもの」という価値判断を含んだ表現で述べ、 それに反論して佐倉さんも「豊か」という言葉を使われましたが、 後になって、こういう見方は間違っていると感じました。なぜなら、 自分の思考を豊かにするために、本来間違いの思想が肯定されるべきではなく、 貧相な考えだと思われるゆえに、正しい思想が否定されるべきでもないからです。 そういう価値判断によらず、人間はただ有限の人間的見地で考えていくしかない、 それ以上でもそれ以下でもない存在でした。

以上です。 また長々とすみません。 では、引き続きがんばってください。できれば、ご回答をお待ちしております。





作者より水野さんへ

00年4月9日

(1)「無視すべきではない」は有限な人間には実行不可能

佐倉さんの返答は、「肯定も否定もできない事柄はたくさんある」 という説明にはなりますが、 わたしが言った「肯定も否定もできない事柄は無視できない」 という考えに対する反論にはなっていない、と思います。佐倉さんの論理は、

物事を考えるとき、(肯定も)否定(も)できないことすべてを「無視すべきでない」とすると、おそらく、わたしは何一つ考えることはできなくなる

から、(それでは困るから?)「肯定も否定もできない事柄を無視してもよい」 というように聞こえ、論理的とは思えません。

「困るから」ではなく無理だからです。「無視してもよい」のではなく、無視せざるを得ないのです。理由は前回も申しましたように、知らないことは無限にあり、その一つ一つの可能性のすべてを「無視するな」というのは、有限な人間には不可能だからです。

例えば、モルモン教の神 -- 人間はやがて神になることのできるというそんな神 -- の存在を「肯定も否定もできないので、無視すべきではない」と考え、日々宗教的物事を考えるたびに、その神に注目しているクリスチャンが一体何人いるでしょうか。日本の神 -- 人間に取り憑く存在としてのキツネやタヌキ、それにカッパや天狗 -- の存在を「肯定も否定もできないので、無視すべきではない」と考え、日々宗教的物事を考えるたびに、そのことに注目しているクリスチャンが一体何人いるでしょうか。「神が人間を造ったのではなく人間が神を造った」と考えるさまざまな種類の無神論の一つ一つを、「肯定も否定もできないので、無視すべきではない」と考え、日々宗教的物事を考えるたびに、注目しているクリスチャンが一体何人いるでしょうか。わたしたちは、自分の興味のある範囲のことにしか注意を向けることはしないし、できません。

肯定も否定もできない事柄は無限にあります。しかし人間は有限です。だから「肯定も否定もできないものは無視すべきではない」というのは無理です。わたしたち人間は、わずかばかりの事柄に注目し、よって他の無限の事柄を無視せざるを得ない、そんな存在だと思います。


(2)人間的見地と神の見地

確かに神について無知である以上、人間は神の見地についても知ることはできません。 したがって「神の見地とはこうだ」という定義は人間的憶測であろうと推論されます。 ただし、だからといって、人間の憶測外にある神の見地がまったくあり得ない ということにはなりません。もし神が実在すると仮定すれば、当然そこには、人間的見地とは別個の、本来の意味での「神の見地」があるはず
「人間の憶測外にある神の見地がまったくあり得ない」ということをわたしは述べたのではありません。たとえ、神や神の見地の実在を仮定しても、その「神の見地」は、神を知らない人間にとっては、まったく無意味だということを述べたのです。なぜなら、神を知らない人間にとっての「神の見地」とは、どんなに頑張っても、どこまでいっても、「神の見地はああだこうだ」と考える人間の見地にすぎないからです。わたしたちは、神を知る人間になったとき、そのときはじめて、「神の見地」を語ることとなるでしょう。神を知らない人間が語ったり思い浮かべる「神の見地」なるものは、わたしにとって、騒音とおなじように、ナンセンスです。

水野さんのおっしゃるとおり、「人間はただ有限の人間的見地で考えていくしかない」、ということだと思います。


おたより、ありがとうございました。


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