佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

born-againさんより

00年3月19日

聖書解釈の前提(ただただただの人間)

はじめまして。たとえば、福音書の並行箇所の見方について「ただのひと」さん風に お話しさせてください。

聖書は「神の言葉であり」「人の言葉である」 キリストは「神であり」「人である」 受難の記述は「マタイ伝のとおりであり」「マルコ伝のとおりである」

「aも真理、bも真理」という読み方を私はしています。

青山学院にまだ神学部があったころ渡辺善太なる神学者がおられたそうです。当時の 学生たちが彼の講義の中で疑問を抱くようになったそうです。 彼の聖書の読み方が「aかbか」を突き合わせて「結論を導き出す」という弁証論的な 捉え方だったからだそうです。 学生たちは、聖書は果たしてそんなに単純な書物なのだろうか、「矛盾に見える」 「矛盾する」を混同していないだろうか、そう思ったそうです。 学生たちは「自分の知性」と「聖書」を天秤にかける作業をしようとしたそうです。

自分が罪人であるということを、聖書をとおして骨身に沁みて悟ったなら、聖書と、 罪で曲がった自分の知性を勝負させることなど、何をか曰んや、だそうです。

これは、実際当時の学生だった人から伺った話しです。

要は認罪の深さの問題ではないかと思っております。





作者よりborn-againさんへ

00年3月26日


(1)矛盾と相違

「aも真理、bも真理」という読み方を私はしています。

青山学院にまだ神学部があったころ渡辺善太なる神学者がおられたそうです。当時の学生たちが彼の講義の中で疑問を抱くようになったそうです。彼の聖書の読み方が「aかbか」を突き合わせて「結論を導き出す」という弁証論的な捉え方だったからだそうです。

aとbがただ相違しているだけで、矛盾しているのでなければ、「「aかbか」を突き合わせて「結論を導き出す」」ことはできないでしょう。しかし、aとbが矛盾していれば、「aも真理、bも真理」という主張は誤謬となります。aとbの両方が同時に成立しない状態が矛盾ですから、aとbが矛盾していれば、「aも真理、bも真理」という主張は、必然的に誤謬となります。たとえば、「サムエル記と歴代誌の矛盾」のように、もし、サムエル記の記述が正しいとすると歴代誌の記述はかならず間違っていることになり、歴代誌の記述が正しいとするとサムエルの記述はかならず間違っていることになります。両者の主張は同時に成立しないからです。したがって、サムエル記と歴代誌の記述のように、単なる相違ではなく、矛盾が明らかな場合、「aも真理、bも真理」という解釈は不可能です。

また、たとえ、aとbが矛盾していないからといっても、それだけで、「aも真理、bも真理」という主張はできません。aとbが矛盾していなくても、「aも非真理、bも非真理」であることもありうるし、「aは真理、bは非真理」であることもありうるし、「aは非真理、bは真理」であることもありうるからです。たとえば、ルカとヨハネは、復活したイエスが見せたものとして、一方は「手と足」、他方は「手とわき腹」を見せたことになっていますが、この場合、二つの記述は、矛盾しているというよりは相違していると言ったほうが良いかもしれません。しかし、矛盾していないからと言って、「ルカも真理、ヨハネも真理」とは言えません。なぜなら、「ルカも嘘、ヨハネも嘘」であることも十分ありうるからです。もし「人間は死んだら生き返らない」というのが真実だとしたら、どちらも嘘ということになります。


(2)聖書と知性

学生たちは「自分の知性」と「聖書」を天秤にかける作業をしようとしたそうです。

自分が罪人であるということを、聖書をとおして骨身に沁みて悟ったなら、聖書と、罪で曲がった自分の知性を勝負させることなど、何をか曰んや、だそうです。

「自分が罪人であるということを、聖書をとおして骨身に沁みて悟」るのも、やっぱり、「自分の知性」によるものではありませんか。人間は生まれつき罪人だと書いた本人も、やっぱり、彼らの「知性」による判断ではありませんか。

すべての判断は「自分の知性」によるものに過ぎないことを「骨身に沁みて悟」っていれば、聖書の間違いや矛盾を指摘する判断だけを「人間的判断」と批判しながら、聖書は神の言葉であるというみずからの判断(信仰)はそれとは別だなどと、思い込んだりする愚かなこともしないと思われますが、born-againさんは

聖書は「神の言葉であり」「人の言葉である」 キリストは「神であり」「人である」 受難の記述は「マタイ伝のとおりであり」「マルコ伝のとおりである」

「aも真理、bも真理」という読み方を私はしています。

と言われています。そういう判断は、人間的判断(「自分の知性」)と、どこが違うのですか。


おたより、ありがとうございました。


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