佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

水野さんより

00年3月8日

間違いはあるが聖霊により書かれたもの -- という仮説(3)

こんにちは。水野です。ホームページ拝見しました。丁重なご返事をいただき、どうもありがとうございました。その中で少々感じたことがありましたので、しつこいようで恐縮ですが、再びお便りさせていただきます。だいぶ長くなりますが、よろしくお願いします。

佐倉さんの説明によりますと、現在、クリスチャンの多くは、聖書の間違いを認めるようになり、その結果、「聖書の成立には何らかの神の関わりがあった、 というぐらいの柔軟な立場をとっている(と思われる)」、とのことです。ここでいう「聖書の成立には・・・」を、言い換えれば、

          聖書の成立には何らかの神の関わりがあった
                ↓
          聖書に対する神の働きかけは全面的なものではなく、
          限定されたものでしかなかった
                ↓
          聖書の執筆・伝承において、聖霊は充分に働かなかった
となる、と思います。最後の文は、前回2月23日付のメールでわたしが引用した論理の結論(3)と同じであり、これは言うまでもなく「聖霊が働いて書かれたものはすべて正しい」という前提に立脚するものです。

つまり、佐倉さんの説明をそのまま受け入れれば、現代のクリスチャンの「柔軟な」信仰も結局は、聖霊により書かれたものにはいかなる間違いもないという考え方から出発している、といえるのではないでしょうか。その意味で、「キリスト教原理主義者」と呼ばれる少数派と大差ないもののように思われます。

そして、わたしが一連の投稿で疑問を呈しているのは、まさにこの「聖霊が働いて書かれたものはすべて正しい」という、きわめて人間臭い思い込みに対してです。なぜなら、聖書を無心に読むとき、その内容はいつの時代も間違いだらけだった、と思えるからです。ノアの洪水の話を例として挙げますと、その史実性はともかく、聖書の記述を文字通りに読めば、神は、まだ雨さえも見たことのない人々に、洪水による滅びの警告を与えています。当時の科学をもってしても、それはめちゃくちゃな話だったでしょうし、それを真に受けて箱船を造るノアの方こそ正気の沙汰ではなかったでしょう。確かに洪水による滅びの予言は当時でさえ非科学的で、信じるに足らない「間違い」の言葉だったと言わねばなりません。そう、雨が降る直前までは・・・。

他にも、アブラハムとサラが老齢になって子供を産む・・・、契約の箱を担いで周回するとエリコの城壁が崩れる・・・、武器を持たない300人の兵士で大軍を打ち破る・・・、処女マリアが懐胎する・・・、など少し思い出しただけでも似た事例は枚挙にいとまがありません。神の啓示のほとんどは、歴史を通じて、その当時の科学・常識からしても、あまりに常軌を逸した異常なものばかりだった、と言ってよいと思います。

にもかかわらず、聖書を鵜呑みにすれば、それらはすべて成就してきました。そしてこれこそ、聖書自身が語る聖書の基本的性格だと思います。簡略化すると、

    ・まず、人間の常識では到底受け入れがたい「間違い」じみた啓示が出される。
    ・大多数の人間はそれを信じず、馬鹿にする。
    ・結果的には神の言葉どおりになり、信じた者が救い(または祝福)を得る。
というパターンの繰り返しです。つまり、聖書の語るところは、いつも、不可解、理不尽の連続なのです。ほかでもない聖書自体が、聖書をそういう書物として規定しているのです。その聖書を信仰するはずのクリスチャンが、聖書の間違いを認めざるを得なくなったとき、安易に聖書を絶対のものから相対化して扱う道を選び、そのうえそれを柔軟な姿勢として正当化するのは、聖書の本質を無視したはなはだ片手落ちな見方だと思います。

彼らは次の重要なポイントを忘れているのではないでしょうか?

すなわち、「聖霊が働いて書かれたものはすべて正しい」としてではなく、「聖霊が働いて書かれたものは、多くの場合、間違っているように思える。少なくとも、不可解である」と心して読むように、ほかならぬ聖書自身が人間に要求している、ということ。そして、その間違いをも信じ得るかどうかに救いがかかっていると聖書が再三語っている、ということ。

わたしが、最初の2月14日付のメールで、

聖書にはたくさんの間違いがあるが、聖書はあくまで神の聖霊により書かれたものであり、神はあえて間違いが存在するのを許しておられるのではないか、
という仮説を立てた根拠はまさにそこにあります。聖書に間違いがあるからといって安直に、「聖書の成立には何らかの神の関わりがあった、というぐらいの柔軟な立場」に安住する現代クリスチャンの退嬰的な考え方ではなく、一見信じる価値を下げているような多くの間違いこそ、神がこっそり置いた、救いと滅びの分岐点なのではないか、聖書の間違いは神の積極的意志によるもので聖霊は充分に働いているのではないか、とポジティブに考えることもできる・・・、少なくともそれが聖書の正しい読み方ではないのか、ということを示唆してみたかったのです。

わたしの拙論は以上です。言葉の足りない点、行き過ぎた点もあるかと思いますが、ご賢察により補って読んでいただければ光栄です。既に1度目のメールの返信でご批判をいただいてはおりますが、改めて佐倉さんのご意見を拝聴できれば、うれしく思います。なお、念のため繰り返しますが、わたしはこれを信仰の立場から言うのではなく、聖書の一読者として考えた単なる「仮説」を述べているにすぎません。わたし自身、これが正か誤か分からないのです。ただ、聖書を虚心に読むとき、それほど間違った説でもないような気もするのです。

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長くなりついでと言ってはなんですが、最後にひとつ質問させてください。

佐倉さんは、かつて「ながいキリスト教遍歴の年月を過ご」されたが、「神の存在感が完璧に欠如している」ゆえに信仰から離れられたようです。(97-6-6「神の存在、イエス」)わたしも似たような経歴があり、そのあたりの心境はとても分かる気がするのですが、佐倉さんと異なるように思うのは、わたしは現在も心のどこかで神におびえている、ということです。つまり、神を完全に信じることができなかったかわりに、神をたとえば想像の産物として完全に切り捨てることもできないのです。自分には結局信じられなかったが、神はちゃんとどこかにいて、いつか裁き主として自分の目の前に、突然ぬっと現れるのではないか、というはなはだ消極的な信仰の残り火みたいなものが、わたしの中でずっと消えません。一連の投稿の内容も、所詮は、そういう絶対神としての神、非力な人間など及ぶべくもない有無言わせぬ荒々しい神、それこそノアの洪水のように人知をはるかに越えたところから人間を裁きにやってくる神・・・、がどこかにいるんじゃないか、いないとも限らない、という恐怖心めいた心情から発せられたものなのです。失礼ながら、佐倉さんの文章からはそういう気配があまりかいまみえず、至極あっさりと(?)神という概念から解放されることに成功しているようにお見受けしております。神の存在感がどんなに欠如していても、神がいないという証明にはならず、いつどこからどう出現してくるとも分からない「神」という巨大なイメージから人間は永遠に自由にはなれないと思うのですが、そのあたりのお考えをお聞かせ願えるでしょうか?

以上、長々と書いてしまいました。相変わらず、サイトの主旨から脱線しているようですが、大目に見ていただければ、幸いです。返答いただければ、なお幸いですが・・・。

では、お体に気をつけて、これからもこのホームページ作りに頑張ってください。失礼します。





作者より水野さんへ

00年3月12日


佐倉さんと異なるように思うのは、わたしは現在も心のどこかで神におびえている、ということです。・・・一連の投稿の内容も、所詮は、そういう絶対神としての神、非力な人間など及ぶべくもない有無言わせぬ荒々しい神、それこそノアの洪水のように人知をはるかに越えたところから人間を裁きにやってくる神・・・、がどこかにいるんじゃないか、いないとも限らない、という恐怖心めいた心情から発せられたものなのです。失礼ながら、佐倉さんの文章からはそういう気配があまりかいまみえず、至極あっさりと(?)神という概念から解放されることに成功しているようにお見受けしております。神の存在感がどんなに欠如していても、神がいないという証明にはならず、いつどこからどう出現してくるとも分からない「神」という巨大なイメージから人間は永遠に自由にはなれないと思うのですが、そのあたりのお考えをお聞かせ願えるでしょうか?
よく誤解されますが、わたしは神を信じてはいませんが、神を否定しているのではありません。知らない事柄については肯定も否定もできないからです。わたしは、神(とくに自分の救いに都合の良い神)のイメージ〔像)を勝手に作り上げることを止めただけであって、「いつどこからどう出現してくるとも分からない「神」」には、いつでも、出てきて欲しいと思っています。


おたより、ありがとうございました。


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