佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー  キリスト  聖書の間違い  来訪者の声 

shin1さんより

00年3月2日

(一部)キリスト教と強迫観念

こんにちは。いつも楽しく拝見しております。今日は、敢えて爆弾発言をさせていただきます。

キリスト教の信者の、多数でないことを本当に願いますが、少なくとも一部は、

私には、ひどい強迫観念にとりつかれているようにしか見えず、かわいそうになるくらいです。 つまり、

 何が何でも聖書は無謬でなくてはいけない。
 自分たちの解釈・教義は完全でなくてはならない。
 自分たちの宗教(セクト・教団・何でもいいです)が唯一絶対最高でなければならない。
という観念に必要以上に縛られている、としか思えません。 (いや、人間それは当然なのかもしれません。しかし問題なのは次の点です) そして、その観念にとりつかれるあまり、
 どんな手段を使っても聖書の無謬を維持する
  そのためには科学だろうが論理だろうが踏みにじってもよい。
 批判は受け付けない。「人間の知恵」「サタンのわざ」と言ってかわす。
  あるいは、つけ込めるところにだけしつこく食い下がる。
  あるいは、都合のよい情報や権威だけを取り入れる。
  あるいは、単に黙殺する。ほとぼりが冷めるまで応答しない。
 相容れない思想・宗教は全て否定する。価値を認める必要などない。
  そしてそのためには、どんな手段を使ってもよい。
ということをしても、恐らく何とも思っていないどころか、 それが信仰に忠実であると思っているとさえ思われます。 とにかく、批判に弱すぎ、すぐに腹を立てとても宗教者とは思えない言葉さえ吐 く。

(「人間の知恵では読めませんよ」「人間の言葉ではなく神の言葉を語れ」  「動機が邪悪だ」「反対派の情報に毒されている」「悪魔」「偽善者」  これらは、私が直に目の当たりにした発言です)

恐らく熱心な信者であろう方々のそういう振る舞いを見る度に、 失礼ながら、何か病的なものを感じざるを得ないのです。 宗教的な熱狂というものを、否定はしませんが、そういうものは本来、 それを目の当たりにするものが何か活力を得られるものではないのでしょうか。

しかしそもそも、信仰とか宗教ってのは、そんな窮屈なものなのでしょうか?私は、基督者じゃありません。だから聖書が無謬なんてこれっぽっちも思いませんし、神や聖霊によって書かれたものとも思っていませんよ。しかし、聖書を読むと何か有り難い気持ちにはなります。そういう感覚とは対局にあるとしか思えない言動や文書を垂れ流す、信者や教団が、あることは本当に嫌な気がします。残念です。何のための宗教なのか、と思います。

私自身ある宗教を信じていますが、別に完璧だとも唯一絶対最高だとも思いませんよ。「そんなのじゃだめだ」と言う人があれば、いくらでも言って頂いて結構ですよ。(そりゃいい気持ちはしませんよ。でも「黙れ」とか言うつもりもないです。 間違っていると思えば反論します。でも自分の過ちや欠点は進んで認めるつもりです)しかし「にもかかわらず」私はそれを信じている。私はそれがよいと思っている。それでいいじゃないかと私は思っています。それではだめなのですか?

立場に関わらず、原点に(原典にも?)立ち返るべきなのではないですか?キリスト教に関して言えば、あなた方は「敵を愛する」ことで知られているのではないですか?「右の頬を打たれれば左の頬を出す」ことで知られているのではないですか?私が「一面的・部分的にしか理解していない」のなら、それでもいいですが、こうした側面を大事にしないで、よいのですか?「異教徒のたわごと」として一笑に付すのは一向に構いませんが…





作者よりshin1さんへ

00年3月12日


自分の命の救いがドグマに依存しているために、そのようなかたくなな態度も生まれてくるのではないでしょうか。真実を知ることよりも、ドグマを信じることが優先されるのですから、そのようになってしまうのは仕方ないと思います。


おたより、ありがとうございました。


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