佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー   キリスト   聖書の 間違い  来訪者 の声 

K.M.さんより

00年2月25日


福音書に対する貴殿の見解に対する反論


  「“イエスの最期の言葉”に対する反論」「“『二人の強盗』の矛盾”に対する反論」「“イエスの墓を見た女(復活2)”に対する反論」 「“イエスの顕現”に対する反論」を読むと、佐倉さんは四福音書はイエスの記述の点で完全に一致していないゆえに間違っている、という風な見解を述べておられます。しかし、そうした見解は福音書そのものの主張と一致しません。もし、佐倉さんの主張が正しいなら、福音書は四つ存在する意味がありません。四福音書の著者はイエスの生涯を完全に網羅して述べたわけではないからです。福音書の著者のヨハネもこう述べています。

確かにイエスは、弟子たちの前で他にも多くのしるしを行われたのであるが、それはこの巻物には記されていない。―ヨハネ 20:30
ですから、詳細な点で記述が異なっているからといって聖書が間違っていることにはなりません。
たとえば、佐倉さんが友達と車でハイキングに行ったとします。そして二人ともそのことを日記に付けるとします。二人の日記の詳細な点が違うことは、二人の日記が間違っていることを意味しているでしょうか。必ずしもそうではありません。なぜなら、佐倉さんとお友達とでは視点が異なるからです。佐倉さんは海の景色に感銘を受けてそのことを書き、お友達が山のことを書いたとしても、それは矛盾とは言えません。なぜなら、行った先に海と山両方があったかもしれないからです。福音書もそれと同様です。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネはそれぞれの立場において違った観点に立ち福音書を記しました。ですから、福音書は間違いであると断言できません。
たとえば、イエスの墓を見に行ったガリラヤの女のうち、マタイは「二人のマリア」、マルコは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」、ルカは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」、ヨハネは「マグダラのマリア」となっていますが、どの福音書もそれだけに限定していません。むしろ、 「“イエスの墓を見た女(復活2)”に対する反論 (2)」で述べているように、これは墓を見に行った人の到着した早さが異なると言う点に注目できます。
このように、聖書を読む際には注意深さが必要です。ただ表面の字ずらだけで物事を判断してはなりません。





作者よりK.M.さんへ

00年2月27日


(1)相違と矛盾

佐倉さんは四福音書はイエスの記述の点で完全に一致していないゆえに間違っている、という風な見解を述べておられます・・・

そんなことは述べていません。相違だけなら間違いとは言えないからです。矛盾しているときに、間違いがあると言えるのです。なぜなら、二つの報告が単に一致しないだけでなく、矛盾していれば、二つの報告は同時成立しないので、少なくともそのどちらかが間違っていることになるからです。


(2)女の数

たとえば、イエスの墓を見に行ったガリラヤの女のうち、マタイは「二人のマリア」、マルコは「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」、ルカは「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」、ヨハネは「マグダラのマリア」となっていますが、どの福音書もそれだけに限定していません。

この例は矛盾ではなく相違です。「他に居たのならどうして書かないのか、あやしいな」と思わせるものではあっても、間違いとはいえません。しかし、「K.M.さんによる福音書」のようなものを作ってしまえば、これらの重要な相違(報告の怪しさ)が隠ぺいされてしまいます。必ずしもその全てが矛盾はしていなくても、復活のことに関しては福音書の報告内容のほとんどが一致していない(一致しているのは、墓に女が行ったことと墓が空であったということだけ)という重要な事実は、決して隠ぺいすべきではありません。


おたより、ありがとうございました。


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