佐倉哲エッセイ集

キリスト教・聖書に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


  ホー   キリスト   聖書の 間違い  来訪者 の声 

K.M.さんより

00年1月20日

「聖書の間違い―復活(4)--- イエスの顕現 ---」に対する反論


イエスの顕現の順番

弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子はエルサレムを経て、11kmほど離れたエマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。 クレオパとその仲間はその人にその日に起きたびっくりするような出来事について説明します。しかし、同時に、その意味が分からなくて困惑している事も打ち明けます。その見知らぬ人は彼らをとがめ、聖書にあるキリストに関連した聖句を二人のために解き明かします。

ついに、エマオの近くにきますが、見知らぬ人はさらに旅をするような様子を示します。弟子たちはもっと話が聞きたいと告げると、その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。

それで二人はその見知らぬ人が非情に多くのことを知っていた訳を理解します。彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。そして使徒たちや使徒たちのところに集まっている人たちを見つけます。みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。

イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。弟子たちは霊を眺めているのだと思っておびえます。それでイエスはご自分が幻影でないことを説明されます。しかし、弟子たちはまだ信じる気にはなれません。

イエスは、ご自分が本当にイエスであることを弟子たちに理解させるために、焼いた魚を一切れ受けとって召し上がられます。それから弟子たちと、事実上聖書研究と言えるものをされます。 トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。ですからその後幾日かの間他の人たちはトマスに、自分たちが主を見たことを伝えます。

トマスは自分の指をくぎの後や脇腹に差し入れない限り、自分は信じないと言い張ります。 さて、八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。

さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。しかし、使徒たちはそれがイエスだと気付きません。 その人の言うとおりに網を船の右側に投じてみると、編みは魚でいっぱいになり、引き寄せることができないほどになります。 ペテロは、彼がイエスだと気付くと、上っ張りをまとい海に飛び込みます。そして、岸まで90mほど泳ぎます。他の使徒たちも、魚のいっぱい入った網を引きながら小舟で後を追います。 彼らが陸に上がると、そこには炭火があって、その上には魚が置いてあり、パンもあります。ペテロが船に乗って網を岸に上げると、その中には大きな魚が153匹も入っています。

イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。今イエスは、パンと魚を一人一人に与え、朝食の給仕をされます。

彼らが食べ終わるとイエスは、多分取れた大量の魚のほうをご覧になりながら、ペテロに、漁業以上にイエスのことを愛しているかお尋ねになります。ペテロは、イエスに愛情を抱いていると答えます。この問答を三度繰り返します。三度目にはペテロは悲しい気持ちになっています。自分の忠節をイエスは疑っているのではないかと思っているのかもしれません。何しろペテロは、ついこの間イエスが生死を分かつ裁判にかけられていた時、イエスを知っていることを三度も否認したのです。それでペテロは、自分がイエスに愛情を抱いていることを強調します。イエスは三度、自分の羊たちを養うように言われます。

こうしてイエスは、行って欲しいと思う業を他の使徒たちにも明記させるため、ペテロをいわば反響版として用いておられるのです。イエスはまもなく地を去られるので、彼らが、神の羊の囲いの中に導き入れられる人たちに仕える点で率先することをイエスは願っておられるのです。 ここでイエスは、ご自分が神から委ねられた業を行ったために縛られ、処刑されたのと同じように、ペテロも同様の経験をすることを明らかにされます。ペテロを待ち受けているのは殉教の死であるにもかかわらず、イエスはペテロにご自分の後に従うようお勧めになります。 ペテロは振り向いた際ヨハネを目にして、ヨハネが何をするのか尋ねます。 イエスはご自分が来るまでヨハネがとどまることがご自分の意志であること、すなわち、ヨハネが長生きし、啓示(黙示録)1章10節にあるようにヨハネが「霊感によって主の日に来る」ことを告げられます。


イエスの昇天のあらすじ

ある時、イエスは11人の使徒全員とガリラヤのある山で会う取り決めをされます。他の弟子たちもその集まりについて聞いていたらしく、全部で500人以上の人が集まります。イエスが姿を見せて人々に教え始めると、それは喜ばしい大会になります。 中でもイエスは、ご自分が天と地におけるすべての権威を神から与えられていることを大勢の群集に話し、弟子を作る業に参加するようとき勧められます。 反対者たちは、この業を止めさせようとするでしょう。しかし、イエスは弟子たちを励まし、制令によってご自分の追随者と共におられ、彼らが宣教を遂行できるよう援助すると約束されます。

イエスは復活後、ご自分が生きていることを、合わせて40日にわたり弟子たちに示されます。弟子たちに現れる時には、神の王国について教え、弟子たちの責任がどのようなものであるかを強調されます。ある時には異母兄弟ヤコブにも現われ、ご自分が本当にキリストであることを確信させます。

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。驚いたことに、使徒たちはイエスがまもなく天へ出発されることについてあれほど聞いていたにもかかわらず、まだイエスの王国が地上に設立されると思い込んでいます。 イエスは彼らの誤った考えをもう一度正そうとはせず、むしろ簡単にイエスの臨在の時を彼らが知ることができないこと、また地の最も遠いところまでイエスの証人となることを説明されます。

イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。肉体を非物質化してから霊者として天へ昇られます。11人がなおも空を見つめていると、白い衣を着た二人の人(み使い)が彼らの側に現われ、イエスが使徒たちが見たのと同じ(ギリシャ語、トロプス。「形」を意味するモルフェーではない)で来ることを説明されます。

今イエスが地を去られた様は、大々的な宣伝もなく忠実な使徒たちだけに見守られるという様でした。ですから戻られる時も同じ様で、すなわち大々的な宣伝もなく、ご自分が戻って王国の権能を持って臨在を始めたことを忠実な追随者たちだけが悟るような様で戻られます。 さて、使徒たちはオリーブ山を下りてギデロンの谷を渡り、再びエルサレムに入ります。彼らはイエスの命令に従ってそこにとどまります。


コリント人への第一の手紙

ここでは「使徒たち」や「諸会衆の使徒たち」について述べてあります。ですから、女たちへの顕現は省いてあります。



作者よりK.M.さんへ

00年1月26日


毎度のことながら、聖書の矛盾を調和化するためには、原文から都合の悪い部分を削除したり、原文にないことを追加する作業をほどこさねばなりません。

聖書ドグマを信じ続けるために、K.M.さんがイエスの顕現に関する原文に何を加筆し何を削除したか、くわしく調べてみます。



イエスの顕現に関する原文の書き換え



(1)マタイの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マタイの記述(28:8-20) 「K.M.さんによる福音書」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるため走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」・・・さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」 弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子は・・・エマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。・・・その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。・・・彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。・・・みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。 イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。・・・ トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。・・・ 八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。 さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。・・・ イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。・・・

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。 イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。


読み比べればすぐにわかりますように、マタイの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間にはいろいろな矛盾と相違が見られます。

(ア)マタイの福音書によれば、イエスが顕現するのは、最初に墓から帰る途中の女たち、そしてガリラヤの山上でイエスの弟子たちの、あわせて二度でした。しかし、「K.M.さんによる福音書」によれば、イエスの顕現は少なくとも七度あったことになっています。他の福音書(ルカやヨハネ)とつじつまを合わそうとされたために、マタイの記述と矛盾することになったのです。

(イ)マタイの福音書によれば、イエスがその弟子達に顕現する唯一の場所はガリラヤの山上です。墓から帰る途中に女たちに顕現したイエス自身が「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言ったからです。しかし、「K.M.さんによる福音書」によれば、イエスはまだエルサレムやその近辺にいる弟子達のところに顕現したことになっています。これもまた、他の福音書(ルカやヨハネ)と無理やりつじつまを合わそうとされたために、マタイの記述と矛盾することになったのです。

(ウ)マタイの福音書によれば、弟子達に顕現したイエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」と言って、世界伝道を命令します。ところが、「K.M.さんによる福音書」によれば、「世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」はずのイエスは、「使徒たちが見守る中で」昇天してしまいます。ルカの福音書とのつじつまを合わせるためです。



(2)マルコの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マルコの記述(16章) 「K.M.さんによる福音書」
古い写本(マルコの福音書 16:8で終わる)
婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。


別の写本「マルコの福音書の長い結び」(16:9-20)
イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。

その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いていく途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことを信じなかった。

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである。それからイエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を述べ伝えなさい。信じて洗礼を受けるものは救われるが、信じないものは滅びの宣告を受ける。信じるものには次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇を掴み、また毒を呑んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

主イエスは、弟子たちに話した後、天にあげられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至る所で宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの言葉が真実であることを、それに伴うしるしによって、はっきりとお示しになった。


別の写本「マルコの福音書の短い結び」

婦人たちは、命じられたことをすべてペテロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。  

弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子は・・・エマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。・・・その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。・・・彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。・・・みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。 イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。・・・ トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。・・・ 八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。 さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。・・・ イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。・・・

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。 イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。


マルコの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間の矛盾と相違は一目瞭然です。古い写本のマルコではイエスはまったく顕現しません。女たちが墓につくと、墓にはイエスの遺体がなくなっており、彼女たちは墓の中で出会った「若者」にイエスが復活したことを告知されるだけだからです。しかも、マルコでは、この女たちはそれらのことについて「誰にも何も言わなかった」のでした。

16章9節以降の部分は多くの聖書学者によって後代に挿入されたと指摘されており、K.M.さんご自身(エホバの証人の立場)も同じ立場のようですから、私たちに伝わってきた聖書には人間的加筆が含まれていて、「聖書は誤謬一つない神の言葉である」という主張が成立しないことのもうひとつの証拠であることを指摘しておくにとどめます。



(3)ルカの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ルカの記述() 「K.M.さんによる福音書」
ルカの福音書 24:13-53
[イエスの墓が空であることがわかった、] ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じあっていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話しは何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在しながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人達がわたしたちを驚かせました。婦人達は朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使達が現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人達が言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心の鈍く預言者たちの言ったこと全てを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるために家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活してシモンに現れたと言っていた。二人とも、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこでイエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるため彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなた方に送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子は・・・エマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。・・・その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。・・・彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。・・・みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。 イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。・・・ トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。・・・ 八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。 さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。・・・ イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。・・・

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。 イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。

ルカの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間にもいろいろな矛盾と相違が見られます。

(ア)ルカの福音書によれば、マタイやヨハネの記述と異なって、イエスは女たちに顕現しません。これはルカの記述に特徴的なことですが、「K.M.さんによる福音書」ではその事実が隠ぺいされています。

(イ)マタイではイエスがガリラヤでその弟子たちと出会うことになるというテーマがルカの福音書では完全に脱落していて、ルカの描くイエスは、マタイが描くイエスのガリラヤ行きの約束など、何も知りません。このこともルカの記述に特徴的なことですが、その事実は「K.M.さんによる福音書」では隠ぺいされています。

(ウ)ルカの描くイエスはガリラヤに決して行くことなく、エルサレムやその近辺で弟子達に顕現してしまうのですが、それだけでなく、ルカの描くイエスはそこで弟子達に「都にとどまっていなさい」と命令します。ところが、「K.M.さんによる福音書」では、ルカと矛盾する他の福音書(マタイやヨハネ)とのつじつまををあわせるために、イエスのガリラヤでの顕現が加筆されねばなりません。そこで、「都にとどまっていなさい」というルカの描くイエスの命令に逆らって、「K.M.さんによる福音書」では、「さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。」という無理な話の展開になっています。

(エ)ルカの描くイエスはガリラヤに決して行くことなく、エルサレムやその近辺で弟子達に顕現し、弟子達に「都にとどまっていなさい」と命令し、そのままそこ(エルサレムの郊外ベタニヤ付近)から天に昇天してしまいます。そのため、他の福音書(マタイやヨハネ)とのつじつまををあわせるために、イエスとその弟子達をガリラヤに行かせてしてしまった「K.M.さんによる福音書」では、今度は、エルサレムで昇天するというルカの話とつじつまを合わせるために、また、エルサレムに帰ってこさせなければなりません。そうするために、

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いにな[った。]その後、イエスは再び使徒たちに会い・・・
という、どの福音書にもないあたらしい話が捏造されています。ルカの福音書によれば、もちろん、女たちの報告を受けたその日のうちにイエスはエルサレムの弟子達に顕現し、イエスは「そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福され・・・祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」のでした。



(4)ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ヨハネの記述(20:1-20) 「K.M.さんによる福音書」
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペテロのところへ、またイエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置いてあるのか、わたしたちには分かりません。」

そこで、ペテロともう一人の弟子は、外に出て墓に行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中に入らなかった。続いて、シモン・ペテロも着いた。彼は中に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じところには置いてなく、離れたところに丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、何故泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、何故泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、何処に置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」と言う意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのは止しなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手と脇腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき一緒にいなかっ た。そこで、他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇 腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家 の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真 ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言わ れた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ば し、脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答え て、「わたしの主、わたしの神よ!」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたし を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」


ヨハネによる福音書への加筆部分(21:1-14)

その後、イエスはディベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出ていって、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何も取れなかった。すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べるものがあるか」彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば取れるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることが出来なかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。他の弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻ってきた。陸から二百ペキスしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今取った魚を何匹か持ってきなさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで、網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多く取れたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちは誰も「」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンをとって弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子は・・・エマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。・・・その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。・・・彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。・・・みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。 イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。・・・ トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。・・・ 八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。 さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。・・・ イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。・・・

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。 イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。

ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」の間にもいろいろな矛盾と相違があります。

(ア)ヨハネの場合、マタイの記述のようにイエスは墓から帰る途中のマリアには顕現しません。イエスの顕現は、マリアが弟子たちに報告した後、弟子たちの中でペテロとヨハネが墓に行き、墓が空であったことを確認してから、彼らが「家に帰って行った」後で起こります。そのため、ヨハネの物語りは、とても滑稽なものとなってしまっています。すなわち、イエスは、ペテロと「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」ヨハネが、二人とも家に帰ってしまい、そこからいなくなるのを待っていて、マグダラのマリアが一人になったとき、ようやく出てきて、「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。云々」と言って、弟子たちへの伝言を預ける、というほとんどあり得ないばからしい話になっています。「K.M.さんによる福音書」では、この事実が隠ぺいされています。

(イ)ヨハネによれば、イエスがディベリアス湖畔(ガリラヤ)で弟子達に顕現したとき、「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」と言っていますが、ルカでは、イエスがエルサレムで弟子達に顕現したときが三度目でした(エマオという村へ向かっていた二人の弟子への顕現が一度め、同じころシモンへの顕現が二度目)。このようにヨハネとルカは矛盾しているため、「K.M.さんによる福音書」では、「使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です」、というふうにヨハネの記述が巧妙にすり替えられています。

(ウ)ヨハネによれば、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち」現れたのですが、ルカでは、弟子の二人はエルサレムから数キロ離れたエマオの村に向かってのんびり旅をしていましたし、弟子達はおおっぴらにエルサレムの「神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」のでした。このようなヨハネとルカの記述の矛盾は、「K.M.さんによる福音書」では隠ぺいされています。

(エ) ヨハネの福音書ではイエスは昇天しません。しかし「K.M.さんによる福音書」では、ルカとのつじつまを合わせているためにイエスは昇天します。そのため、ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」のあいだに相違が出ています。

(オ)ヨハネの福音書ではイエスが弟子達に顕現したときイエスは「手と脇腹」を弟子達に見せます。しかし、ルカでは、イエスは「手と足」を見せたのでした。ヨハネとルカのこの矛盾は「K.M.さんによる福音書」では隠ぺいされています。



(5)コリント人への第一の手紙と「K.M.さんによる福音書」

コリント人への第一の手紙(15:3-8) 「K.M.さんによる福音書」
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かはすでに眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました・・・。

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です・・・。

弟子たちは気落ちし、イエスの墓が空になったことの意味を理解できて折らず、女たちの報告も信じていません。それで日曜日の後刻、クレオパともう一人の弟子は・・・エマオに向かいます。途中、二人がその日の出来事について論じ合っていると、見知らぬ人が話に加わります。・・・その人は食事をとるためにとどまります。その人が祈りをささげてからパンを割いて二人に渡した時、二人はその人が実際に、人間の体を備えて現れたイエスであることに気付きます。しかし、それからイエスは見えなくなります。・・・彼らはすぐに立ち上がり、急いでエルサレムに戻ります。・・・みんなはクレオパとその仲間が何も言わないうちに、興奮しながら、主がシモンに現れたことを告げます。その後二人は、イエスが自分たちにも現れたことについて話します。イエスはこれでその日のうちに4回もいろいろな弟子たちに現れたことになります。 イエスはまた突然姿を現されます。これで5回目です。弟子たちはユダヤ人を恐れて戸に錠をかけていましたが、イエスは中に入って彼らの真ん中にお立ちになります。・・・ トマスは、日曜日の夜のこの重要な集まりに何かの事情で来ていません。・・・ 八日後、弟子たちは再び屋内に集まっています。今度はトマスも一緒にいます。戸には錠がかかっているのに、イエスはまたも彼らの真ん中に立たれ、トマスに自分の指をくぎの跡や脇腹に差し入れるよう言われます。それで、トマスはイエスの復活を信じます。 さて、使徒たちは、以前にイエスから指示されていたとおりガリラヤに戻ります。しかし、そこで何をすべきかについては確信がありません。 一晩中漁をしましたが、何も取れません。ところが、ちょうど明るくなって来た頃、イエスが浜辺に現れます。・・・ イエスは弟子たちを朝食にお招きになります。誰もが彼がイエスであることを知っています。復活後イエスが現れたのはこれで七度目であり、使徒たちが一緒にいるところに現れたのは三度目です。・・・

イエスは使徒たちがまだガリラヤにいる間、エルサレムへ戻ることを指示されたようです。エルサレムで使徒たちにお会いになると、エルサレムを離れないよう命じます。 その後、イエスは再び使徒たちに会い、エルサレムを出てベタニヤにまで彼らを連れて行かれます。 イエスは使徒たちが見守る中で天に向かって昇り始め、やがて雲に隠れて見えなくなります。 ・・・


コリント人への第一の手紙

ここでは「使徒たち」や「諸会衆の使徒たち」について述べてあります。ですから、女たちへの顕現は省いてあります。

コリント人への第一の手紙と「K.M.さんによる福音書」の間にもいろいろな矛盾と相違があります。

(ア)パウロのこの記録によれば、イエスの最初の顕現はペテロ(ケファ)に対してです。パウロのリストにはマグダラのマリア(たち)やエマオに向かっていた二人の弟子へのイエスの顕現はありません。「K.M.さんによる福音書」では、福音書とパウロの記述にある矛盾を調和化するために、

ここでは「使徒たち」や「諸会衆の使徒たち」について述べてあります。ですから、女たちへの顕現は省いてあります。
などという言い訳が試みられていますが、残念ながらそれはうそです。(毎度のことですが、どうして聖書信仰というものは人をしてこんなに平気でうそつかせることができるのか、いつものことながら驚かされます。)これがうそであることは、「次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」とパウロが続けていることからも明らかです。それに、パウロの記述にはエマオに向かっていた弟子達への顕現もありません。したがって、この点でも、「ここでは「使徒たち」や「諸会衆の使徒たち」について述べてあります。ですから、女たちへの顕現は省いてあります」、という言い訳は成り立ちません。

(イ)パウロによれば、イエスの三度目の顕現は「五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」というものですが、これはどの福音書にも使徒行伝にも相当する記録はありません。パウロの記述と福音書や使途行伝との間にあるこの矛盾は、「K.M.さんによる福音書」では隠ぺいされています。

(ウ)パウロによれば、最後にイエスはパウロ自身にも顕現したと言っています。しかし、パウロへの顕現はルカが記述するイエスの昇天以後のことでした。したがって、パウロのイエス顕現に関する記録とルカのイエス昇天に関する記述には矛盾が生まれていますが、「K.M.さんによる福音書」では、この矛盾は隠ぺいされています。



(6)感想

聖書信仰者は熱心に外典を否定し、聖書だけが神の言葉であることを主張しますが、どうやら、聖書信仰者は、聖書の矛盾を調和化するために、自分たちが聖書にはないことがらを勝手に付け加えることについてはまったく平気のようです。

そのように感じました。

おたより、ありがとうございました。


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