ここでは、「文書資料説」が取り上げられているので、まずそれについて考察 します。文書資料説の当初の根拠となったのは、神に関して異なった称号が用い られていることでした。それは筆者が異なることを示している、と批評家たちは 主張します。しかし、そのような見解が道理に合わないことは、創世記の中の短 い一つの部分だけでも、「至高の神」(エール エルヨーン、創 14:18)、「天 地を作り出された方」(14:19)、「主権者なる主」(アドーナーイ、15: 2)、「ご覧になる神」(16:13)、「全能の神」(エール シャッダイ、17: 1)、「神」(エローヒーム、17:3)、「まことの神」(ハー エローヒーム、 17:18)、「全地を裁く方」(18:25)といった称号が用いられていることから 分かります。その点を根拠にして、これらの部分の各々が異なった筆者によって 書かれたことを示そうとすれば、幾多の困難な問題が生じて、つじつまが合わな くなります。むしろ事実を言えば、創世記の中で神に様々な称号が用いられてい るのは、その称号の意味のためであり、エホバの様々な属性、種々の業、ご自分 の民を扱われる方法を明らかにしているのです。

ほかにも次のような例があります。創世記1章1節では、「創造された」を表す のにバーラーという語が用いられているため、この箇所は“P”と呼ばれる資料 によって書かれたといわれています。しかし、同じ語は“J”のものとされる資 料の創世記6章7節にも含まれています。いくつかの聖句に出てくる「カナンの 地」という表現(その中には 創 12:5;13:12前半;16:3;17:8がある) は、“P”として知られる筆者に特有のものと言われているため、それらの批評 家たちは、“P”がその部分を書いたと考えています。しかし、42,44,47,50 の各章でも、同じ批評家たちが“J”と“E”の書いたものとしている部分に同 様の表現が見られるのです。ですから、批評家たちは、創世記中の矛盾とされる 箇所を説明するために自分達の説が必要だと主張しますが、よく調べてみると、 その説自身に多くの矛盾が含まれていることが明らかになります。

創世記の記述の中から、各々の学説の拠り所とされる部分ごとに、また文ごと に取り出して再構成すれば、結果的に出来上がるのは、どれもこれもそれ自体非 論理的で一貫性の欠けたいくつかの記述です。それら様々な資料が後代の編集者 によって用いられ、一体化されたことを信じるとすれば、一貫性のないそれらの 記述が統合される前に、イスラエル国民がそれを幾世紀にもわたって歴史として 受け入れ、用いてきたと考えなければなりません。しかし、どんな筆者がそのよ うな支離滅裂な話を作り上げるでしょうか。特に歴史家であればなおのことそう です。それに、そのような話を作り上げたとしても、どんな国民がそれを自国民 の歴史として受け入れるでしょうか。

「文書資料説」を唱道する人たちが道理にかなっていないことは、エジプトの 学者K・A・キッチンが述べた次の言葉によって例証されています。「五書批評 においては、全体を別々の文書もしくは“手”に分割することが長年にわたる習 わしになってきた。……しかし、それらを様々な“手”や文書に起因するとする 旧約聖書批評の慣習は、それと酷似した現象を示す古代オリエントの他の文書に あてはめるとき、不合理であることが明らかになる。」それからこの学者は、あ るエジプト人の伝記の例を引き合いに出していますが、それは創世記の批評家た ちが採用した理論的な方法を用いれば、様々な“手”によるものとみなせます。 しかし、証拠によれば、その作品は「数ヶ月か数週間以内、もしくはそれ以外で 考え出され、作られ、書かれ、刻まれたものであって、その文体の背後に“複数 の手”はありえない。その文体は想定されている主題や適切な扱い方の問題によ って異なっているに過ぎない。」(新聖書辞典、J・ダグラス編、1980年、349 ページ) 実のところ、批評家の学説に見られるこのような弱点は、神の霊感を 受けたものとして創世記に見出される、互いに関連を持つ首尾一貫した記述がた だ一人の人、つまりモーセによるものであるという証拠を一層強化しています。

さて、次にノアの箱船の記述ですが、この「文書資料説」の“P”と“J”に 分けてあります。そのうち、最初の四つはすでに考慮しました。五つ目の項目は 矛盾とは言えません。清い獣の中から「七つがいずつ」とありますが、これは雄 と雌がそれぞれ七匹ずつという意味です。また、清くない獣の中からは「一つが いずつ」とありますが、これも雄と雌がそれぞれ一匹ずつという意味です。ま た、七つ目の項目も矛盾ではありません。「四十日四十夜」続いたのは「雨」で (創 7:12)、雨が止んだ後も水が引くまでに一年近くかかったのです。また最 初「烏」を放った後、水が引いたかどうか確かめるため「鳩」を三度放ったので す。