佐倉さんは「「イエスの最期(1)--- 誰が「待て」と言ったか ---」に対す る反論」の中で、わたしのことをファンダメンタリストだと言っておられます が、わたしはファンダメンタリストではありません。ファンダメンタリズムには いろいろ定義がありますが、「広辞苑」で「原理主義(fundamentalism)」を調 べると以下のように書かれています。

「原理主義:キリスト教で、聖書は無謬であり、天地創造などの根本教義は逐語 的に真実であるとし、神学・信仰にかかわる近代主義や合理主義を批判・排斥し ようとする立場」

確かにわたしは聖書は無謬であると考えておりますが、「天地創造などの根本 教義は逐語的に真実である」とは考えておりません。わたしは創造の七日は逐語 的なものではなく、区分であると考えております。また、「神学・信仰にかかわ る近代主義や合理主義を批判・排斥しようと」はしておりません。わたしは合理 的に考えても聖書は無謬だと考えております。


キリスト教ファンダメンタリズムに関する古典、オックスフォード大学のジェームス・バー教授の『Fundamentalism』(The Westminster Press 出版)によりますと、「ファンダメンタリスト」は次のように説明されています。

ファンダメンタリストの聖書解釈はどの点において他の人々の聖書解釈と異なっているか? このような質問に対して素人は、しばしば、「聖書を文字通りに解釈する」、などと答える。しかしそれは事実からほど遠い。ファンダメンタリストとそうでない人々を区別しているものは、文字どおり主義かどうかではなく、誤謬性に関するものである。たとえファンダメンタリスト自身が「文字通りに解釈する」と言っている場合でさえも、事実はそうではない。ファンダメンタリストが強調するのは、聖書は文字通りに解釈すべきであるということではなく、聖書がいかなる誤謬も含まないように、そのように聖書は解釈すべきである、ということである。聖書にはいかなる間違いも含まないという目的を達成するためには、彼らは、文字通りの解釈と文字通りでない解釈の間を無原則にいくらでも行ったり来たりする。ファンダメンタリストの聖書に関する最も主要な主張は、聖書は神によって書かれたものであって、それはいかなる誤謬も含まない、ということなであって、聖書は文字通りに解釈すべきである、などということではない。それは彼らの文献に明らかである。

・・・よく引き合いに出される例を挙げると、今日のほとんどの保守的意見は創世記における創造物語を文字通り解釈しようとはしない。文字通りに解釈すれば、世界の創造はわずか6日6晩で行われたことになるが、かれらの文献によれば、そうではない。むしろ、「一日」を文字通りに解釈することに対する危険性や困難が述べられている。New Bible Commentary (Inter-Varsity Press, 2nd ed. 1954, p.77) において、E.F.ヶヴァン氏はそれを「普通の一日」と解釈することは「真の困難」をもたらす、と書いている。・・・・「多く」はそれぞれの一日を「24時間」としてではなく「地質学的期間」としている、という。

[中略 ここでジェームス・バーはその他のファンダメンタリスト文献からも例もいくつか挙げている。]

ここに見られるのは、創世記1の文字通り解釈よりも象徴的解釈の方である。ファンダメンタリストのなかのひとにぎりの過激派だけが、まだ文字通り解釈をしているだけである。このようになった理由は明白である。・・・・何が起きたかというと、地球の形成が極めて長期間を要したものであったという科学的見解が否定できないほど強力となったからである。文字通りに解釈すれば、ファンダメンタリストのインテリ達が今では受け入れているこの科学的見解に反することになってしまう。そうすると、聖書には間違いがあることを認めざるを得なくなってしまう。それを避けるために、保守的インテリ達は文字どおりではない解釈をせざるを得なくなる。それだけが、聖書の無誤謬性を救うことができるからである。

100年ほど前ならば、おそらく、多くのファンダメンタリストは文字通り主義を貫いていたであろう。もし、聖書の文字通り解釈と科学的見解が異なる場合は、かれらは、むしろ、科学の見解を捨てていたに違いない。・・・・

[中略 ここでジェームス・バーは、創世記における七日を一週間と解釈しないことが不自然であることを指摘し、そのあと、創造物語以外の例を挙げている。]

こういうわけで、最初の例にも見たように、あきらかに、ファンダメンタリストの聖書解釈は文字通り主義ではなく、むしろ、文字通り解釈と文字通りでない解釈の間でさまざまま解釈を施している。このさまざまな解釈を導いている彼らの聖書解釈の本当の原則は、聖書は無誤謬で、いかなる間違いもあってはならない、というものである。無誤謬性は、このように聖書解釈の様相を常に変えること、とくに、必要ならば文字通り主義を捨てること、によってのみ保たれているのである。

(ジェームス・バーの『Fundamentalism』(The Westminster Press 出版)第三章より)

言い換えれば、ファンダメンタリズムの聖書解釈とは、聖書(の著者達)が何を語ろうとしているかを知るための解釈ではなく、「聖書には間違いがない」という結論を導きだすための解釈、と言えるでしょう。すくなくとも、本サイトでわたしが「ファンダメンタリスト」という表現を使うときは、このような意味で使っています。