佐倉哲さんの主張される「マタイやルカやヨハネの福音書によると、イエスは、鶏が鳴くまでにペテロが三度イエスを否定すると予言していたにもかかわらず、マルコの記述によると、鶏はペテロがイエスを一度否定しただけですぐ鳴いてしまうのです。 このために、『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう』と予言していたイエスは偽予言者となってしまっているのです。 」とは何のことでしょう。私にはさっぱり意味不明です。

マルコによる書をよく読まれてください。 マタイ26章34節のマルコの並行個所では「鶏が『二度』鳴くまでに、あなたは三度否認するでしょう」となっていませんか。すなわち、これは矛盾ではなく、佐倉さんの思い違いによるものです。

では、次に、マタイやルカやヨハネの福音書と、マルコ福音書ではどうして「鶏の鳴く回数」の記述が異なっているのでしょう。 それはマタイ、ルカ、ヨハネはペテロが泣き崩れる結果になった最後の否定に焦点を合わせているからです。最初鶏が鳴いたとき、ペテロはイエスと一緒にいたことを否定しただけでした。ところが二度目に鶏が鳴く前、ペテロはイエスを呪うことまでしたのです。これはペテロが周囲の圧力に屈してそうしてしまったのですが、その結果、ペテロは泣き崩れてしまいました。マタイ、ルカ、ヨハネはこちらの方に重点を置いています。ですから、実際にはイエスは「鶏が『二度』鳴くまでに、あなたは三度否認するでしょう」と言われたのでしょうが、『二度』の部分は省いているのでしょう。もっとも、当人に聞いてみなければ詳細は分かりません。

いずれにしろ、この部分は矛盾しているわけではありません。

追伸:前回送信した「『ペテロの離反とイエスの予言』に対する反論」は、こちらの送信ミスにより途中転送されたようですので、削除してください。毎回読んでくださり感謝します。


佐倉哲さんの主張される「マタイやルカやヨハネの福音書によると、イエスは、鶏が鳴くまでにペテロが三度イエスを否定すると予言していたにもかかわらず、マルコの記述によると、鶏はペテロがイエスを一度否定しただけですぐ鳴いてしまうのです。 このために、『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう』と予言していたイエスは偽予言者となってしまっているのです。 」とは何のことでしょう。私にはさっぱり意味不明です。
(ア)マタイやルカやヨハネの福音書によると、イエスは、鶏が鳴くまでにペテロが三度イエスを否定すると予言していた。

(イ)マルコの記述によると、鶏はペテロがイエスを一度否定しただけですぐ鳴いてしまう。

このマタイやルカやヨハネの福音書のイエスの予言に関する記述(ア)が正しく、かつ、マルコの福音書の鶏の鳴く記述(イ)が正しいとすると、イエスの予言がはずれたことになります。だから、「イエスは偽予言者となってしまっている」、と言ったのです。(ア)と(イ)の間に矛盾があるわけです。

マルコにおける予言の記述とおなじくマルコにおける鶏の鳴く記述との間に矛盾があるわけではありません。マルコはマルコなりに一貫しており、マタイやルカやヨハネはそれぞれそのうちでは一貫しているのです。しかし、マタイやルカやヨハネの福音書のイエスの予言に関する記述とマルコの福音書の鶏の鳴く記述を突き合わせてみると、そこに、矛盾が見られる、ということです。