佐倉さんのサイトをいつも楽しみに読ませていただいております。

佐倉さんの指摘されている天地創造物語の矛盾について、こんな記事を見つけまし た。

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』(朝日文庫)

創造の順序の矛盾については

自然界における人間の位置とか男女の意義などについて、この二つの話は表面上の違いにもかかわらず、ある共通のことを語っている

太陽の創造時期に関する間違いについては

神は六日間の天地創造行為のうち、前半の三日で世界のいわば環境を造り、後半の三日で、それぞれの環境の、いわば住人または管理人たちを造っている。そこで、一日目の光(オール)と闇つまり昼と夜に対して、四日目(後半の第一日目)に太陽と月・星という「発光体」(マーオール)を造ったのである。また古代の常識では――いや、現代でも実感としては――世界は太陽の出る前に光がさして明るくなるし、また曇天の日でも朝が来れば光(明るさ)は現れる。だから光が先で太陽はあと、きわめて常識的である
著者の浅見氏は東北学院大学教授で神学博士です。この解釈はきわめて妥当でしょう。ちなみにこの本、イザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』(角川文庫)への反論です。

何かのご参考になればと思いメールいたしました。

追伸

ご参考ついでに(「聖書の間違い」の趣旨とは違うかもしれませんが)反モルモン教 サイトもご紹介しておきます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/‾exmormon/

(1)創造の順序の矛盾について

自然界における人間の位置とか男女の意義などについて、この二つの話は表面上の違いにもかかわらず、ある共通のことを語っている
言い換えれば、二つの創造物語の間には共通したところもある、と言っているにすぎないわけです。共通項があることなど何でもないことです。人間と猿の間にも「表面上の違いにもかかわらず」共通項があるし、人間とアメーバとのあいだにも「表面上の違いにもかかわらず」共通項があります。人間とロボットの間にも「表面上の違いにもかかわらず」共通項があります。同じユダヤ人の宗教的伝統の中において、異なる時代の異なる人によって書かれた二つの創造物語に共通したところがあるのは当たり前でしょう。しかし、共通したところがあるからといって、矛盾したところが無くなるわけではありません。

それに、二つの創造物語の問題は、単に、創造の順序の矛盾の問題でもありません。指摘していますように、それらがまったく異なる時代の異なる人によって作られた別々の資料の寄せ集めであるということの、ひとつの重要な根拠となっていることです。


(2)太陽の創造時期に関する間違い

光が先で太陽はあと、きわめて常識的である・・・
わたしが指摘している、太陽の創造時期に関する間違いとは、光(第一日)と太陽の創造(第四日)の順序の矛盾ではなく、第四日目に太陽が創造されるより以前、すなわち第三日に、地球上に植物が生えていた、という創造物語の記述にあります。地球は太陽の周りを回っている、また、地球の植物は太陽なしに繁殖できない、というわたしたちの知っている事実から考えれば、太陽が存在するようになる以前に、地球が先に存在していて、しかも、その地上に植物が繁殖していたなどとはまったく考えられないからです。