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(1)「聖書の間違い」について

拝見した範囲では、もう既に佐倉様はご自身で結論を出していらっしゃるように思われます。聖書の文言に対するご自身での吟味ももちろん大切なのですが、聖書学の方面で研究も進んでいることですし、「聖書の間違い」というタイトルのままでは、いつまでたっても水掛け論の域を出ないような気がするのですが、いかがでしょうか。

わたしはこのような問題になにか普遍的な結論があるとは思っていません。大切なことは、批判的な研究のやり取りの中で、いろいろなことが明らかになることだと思います。問題は、水掛けによってどちらかが勝者になることではなく、そのやり取りのなかで新しい発見がなされることだと思います。

また、人間が人間の不完全性を自覚することはもっとも大切な知識だと思います。しかもこれは常に努力を要する知識だと思います。人間はいつでもすぐ思い上がるからです。そのためには自分を他人からの批判のなかに置く必要があります。また、遠慮のない批判もしてあげる必要があります。とくに、自分や誰かを神の代弁者と思い込んだりする事態があるとき、しかもそれが社会に大きな影響を与えるようになるとき、批判は義務でさえあると考えています。そのなかでも、とくに、かれらが貧者をめぐんだり、弱者を助けたりする善人であるとき、最大限の批判が必要だと思います。善人だからと言ってその思想が真理であるわけでもないのに、善人であるということによってその思想の虚偽性が疑われることをまぬがれているからです。それに比べれば、オウムは安全です。



(2)参考資料

キリスト教ファンダメンタリズムに関して詳しく分析されている本やサイトなど、もしご存じでしたら、ご教示くださいませんか。

オックスフォード大学の旧約聖書学者ジェームス・バー(James Barr)著『FUNDAMENTALISM』(The Westminster Press )



(3)立脚点

カトリック側の主張を見聞している限り、「聖書のみ文字通り信じる」というのは、どうやら無理があるようにも思われるのです。ともかく、私としては、やはりキリスト教をすべて批判するのではなく、ファンダメンタリズムのみに焦点を当てたいと思います。その点、佐倉様とは立脚点が多少異なります。

いろいろな立脚点があると思います。

わたしの立場としては、法皇であろうと、天皇であろうと、聖書であろうと、仏典であろうと、人間や人間の書いたものを神のものとして特別視する(したがって他の人や他の書を蔑視する)立場があれば、ファンダメンタリズムであろうと何であろうと、わたしの中にある疑問符はむくむくと頭をもたげることでしょう。人間は神ではないのですから。