確かに、この部分をどう訳すかは翻訳によって異なっています。新世界訳はこの部分を [「さあ、野に行こう」] と訳して、脚注に以下のような説明を加えています。

サマリア五書、セプトゥアギンタ訳、古ラテン語訳、シリア語ペシタ訳はこの角かっこの言葉を挿入している;ラテン語ウルガタ訳、「さあ、外に行こう」;「ビブリア・ヘブライカ」および「ビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシア」に載せられているレニングラード写本B19Aのヘブライ語マソラ本文 は省いている。幾つかの写本と印刷版はここに空欄を設けている。
しかし、こうした相違はさほど大きいものとは考えられません。この部分はあくまで訳文の意味を明確にするための補足として載せているだけです。


(1)誰が補足した(欠落させた)のか

この部分はあくまで訳文の意味を明確にするための補足として載せているだけです。

誰が補足したのですか。神ですか、聖霊ですか、写字生ですか、翻訳者ですか。どのようにして、誰が補足したのかを決めることができますか。そもそも、どうしてそれが補足であると決められるのですか。もしかしたら、もともとあったものが、ある写本では、見落とされたために、生じた相違かもしれません。補足か、見落としか、どのようにして決めることができますか。もしそれらを決めることができねば、わたしたちは聖書に書いてある事柄がすべて神の言葉であるということは言えないことになります。そうすると、その他も部分(たまたま、複数の写本が一致している部分)も、人間が補足したもの(したがって、神の言葉ではない)かもしれない、ということになります。



(2)相違の意味するもの

こうした相違はさほど大きいものとは考えられません。

このような写本間の相違の数は、聖書のほとんどすべてのページに見られるほど、膨大なものに上ります。しかも、そのうちのあるものは、たとえば、マルコ16章のように、ほとんど一章丸ごとが、もともとあったものかそれとも後代の挿入なのかが、問題となっています。

さらに、一冊丸ごとが、神の言葉の一部をなすのか、それとも、人間の創作にすぎないのか、と疑われる書物も沢山あります。たとえば、『トビト記』、『ユディト記』、『マカバイ記第一』、『マカバイ記第二』、『ソロモンの知恵の書』、『シラ書』、『バルク書』などは、カトリック教会の聖書(正典)には含まれていますが、他のキリスト教会、とくにピューリタンの影響を強く受けた教会(米国発のプロテスタントやエホバの証人など)は、これらの書物は外典として排斥し、かれらの聖書の一部(正典)として認めていません。

さらにまた、『エノク書』のように、現在すべての教会から偽典として排斥されている書物が、かれらが正典の一つとして認めていて、聖書の一部となっている書(『ユダの手紙』)の著者によって、神の言葉として認められていた、という奇妙な事態も起きています。

これらの写本間の無数の相違や、正典・外典・偽典の問題は、聖書がその原本からわたしたちの時代にまで伝えられてきたその経路において、聖霊の導きがなかったこと、つまり、何が聖書であるか(神の言葉であるか)を決めたのは人間であったことを示すものです。