僕も聖書を愛読しているので、その過程でふとわかったことをカキコしたいと思います。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光と闇を分けられた。神はその光を昼と名づけ、闇をよると夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第1日である。

『旧約聖書』「創世記」第一章三〜五節

神は第1日目に光と闇を造ったとありますが、太陽が地を照らしたのは第四日目です。
神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天の大空にあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

『旧約聖書』「創世記」第一章十四〜十五節

それに、聖書学的に神の1日と人間の1日とはまったく違います。人間の1日は24時間ですが神の1日は千年に値するとあります。それならば天地創造がいう「夕」と「朝」は単純に太陽の日の出と日の入りをで区分けされるそれとは違うのではないか?と思うのです。答えは新約聖書にあります。
初めに言があった。言は神と共にあった。言葉は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。

『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第一章一〜五節

すなわち、初めに言があって造られた光とは、マリヤを通して受肉する前のイエス・キリストのことなのです。言は神と共にあり、言は神であるならば、すでに二人の神が存在することになります。すなわち、神=御父であり、言=イエス・キリストです。そして、闇はこれに勝たなかったとあるように言=光=イエスに戦いを挑んだ闇=堕天使たちは、天界から追放されたのです。ということは、天地創造の第1日目の「神はその光と闇を分けられた」という記述は聖書学でいう「光と闇の戦い」の描写です。ゆえに最初から「光と闇を造った」とは記さずに、光を造った後で「神はその光と闇を分けたと記しているわけです。

by NO-MUより


引用しておられる新約聖書における「光」と「闇」は、あきらかに象徴的表現ですが、それを、象徴的表現とは思えない創世記の光り創造と単純に結びつけられているわけですが、そうすると、創造の第一の日に、「闇」すなわち、神に反逆した御使いたちが現れるようになったことになります。ところが、創世記によると、すべての創造が終わって、創造の最後の日(第六の日)に、

神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記 1:31)
と記されています。そうすると、これは、創造の第一の日に神に反逆した御使いたちが現れるようになったと解釈することと、あきらかに矛盾することになります。

まさか、「聖書を愛読しているので、その過程でふとわかったこと」を、単純にそのまま、神の導きなどと思われているのではないでしょうが、聖書を信仰的に読むことの危うさを感じざるを得ません。