三度、大沢です

1.ごあいさつ

回答ありがとうございます。またまた大沢です。長いメールでどうもすみませんでした。あんなに長くなってしまったのは、私の問題設定をご理解いただきたかったからで、それというのも私が自分の問い自体が間違っているのではないかと危惧しているからなのです。佐倉さんもお忙しくてらっしゃるでしょうし、投稿者は私だけではありませんから、今後は反省して軽いやつで行こう、と考えています。


2.「イスラエルの王たち」 について

佐倉さんは「『ダビデやソロモンは王ではありません』とはどういうことなのでしょうか」とおっしゃっておられます。これはまったく単純なことでして、ダビデやソロモンは王ではありません。ヤハウェが王です。ヤハウェはエジプトやメソポタミヤの絶対王をモデルにして、その強力な政治に対応するものなんですから、「エジプトの王」の比較項に入る「イスラエルの王」は是非ともヤハウェでなければなりません。そしてこの「ヤハウェというイスラエルの王」は自らを思いっきり神と同一視しています。もちろん「エジプトの王…が自分自身を神と同一視するすような仕方で、王を神と同一視するような記述」は聖書の至るところでショーケツを極めております。

したがって佐倉さんが挙げておられる『サムエル記』の箇所を、サウルが王ではないことを語っている記事だと私は考えるわけです。佐倉さんは「ここにあるのは、イスラエルに王を立てることそのものが神(真の王)への反逆である、という考えです」とおっしゃっておられますが、サウルのようなザコは(したがってまたダビテもソロモンも)「神(真の王)」ではないのでありまして、だったらそれは「真の王」じゃないんだから「偽の王」なんだろう、と。つまり「ダビデやソロモンは王ではありません」ということになるわけです。

…えー、私としては佐倉さんの説にしたがって論を展開しているつもりだったんですが…また何か私は早合点をしてしまったのでしょうか。

エジプトでは、伝統的に王(ファラオ)が自らを神と同一視します。一方、イスラエルでは神(ヤハウェ)が自らを王と同一視します。しかし、いずれにしてもこれは神王同一論であって、エジプトの「王=神」も、イスラエルの「神=王」も、機能的に等価だと私は考えるわけです。なんというか、たとえて言うなら、午前中の遅い時間に食事をとったとして、それはさて「遅めの朝食」か「早めの昼食」かというようなものです。食べるものも食べる時間もその食事の身体への影響もすべて同じで、違うのは呼び方だけです。

したがってダビデやソロモンがけっして神と同一視されなかったからといって、それはエジプトとイスラエルの相違を表わすとは言えないだろう。それは、それほどにまで王が神と同一視されている(王=神=ヤハウェ)ことの反対効果で、むしろエジプトとイスラエルの類似を示しているのではないか、と私は語っているのです。あるいは佐倉さんは、「神」とか「王」とかっていう概念を何か実体的なものとして捉えておられて、「機能的に等価」だとか「いずれにしても神王同一論」とか「すべて同じで、違うのは呼び方だけ」、というような飛躍した考え方は採用できないとお考えでしょうか。私は原理的にはどっちでも同じようなもので、それが現実にどっちの形をとるか(エジプトの「王→神」型か、イスラエルの「神→王」型か)がその共同体の抱える現実的な諸条件に左右されて異なるだけ、と思ったのですが。

ここで私が語っているのは、一番最初におたよりしたときの(「感想、死後の世界、絶対王にして軍神たる唯一神の起源」)「それに、エジプトの王は自分たちを神と同一視する傾向があるようですが、イスラエルの王たちは、たとえ、ダビデやソロモンであろうと、けっして、神と同一視されるようなことにはなりません」という佐倉さんの回答に対して、私が感じた疑問です。そして、この佐倉さんのお答えは「神の性格を「絶対王」にして「最強の軍神」としてしまうまでにエジプトの影響をうけたユダヤ教が、どうして「死後の世界」の思想についてだけその影響を免れることができたのでしょうか」という私の質問に対する回答で、ユダヤ教は「すくなくとも神の理解に関しては、宗教的な影響はほとんど受けていないとおもわれますから、「死後の世界」の思想について、その影響を免れることができたのは、別に不思議なことではありません」という結論の、ひとつの傍証として提出されているわけです。

つまり佐倉さんは、ユダヤ教に「死後の世界」の思想が見られないのは、エジプトの影響をほとんど受けていないから、その証拠にイスラエルの王たちは神と同一視されることはありません、とおっしゃっているわけですよね。私はこれをひっくり返して考えているわけです。ユダヤ教に「死後の世界」の思想が見られないのは、エジプトの影響をまともに受けているから(ただし伝統的なエジプトの宗教ではなく、アートン信仰)、その証拠にイスラエルの王(ヤハウェ)は自らを思いっきり神と同一視しています、と。

まあ、こんなことはもはやどうでもいいことになってしまったわけですが、一応これが私の言いたかったことです。

ご理解いただけたでしょうか。しかし、あんなに長ったらしく書いているのにまだご理解いただけないというのは、私の文章力がそれほど低いということで、大変申し訳ないです。ガールフレンドにもよく「あなたはいつも言葉が足りないのよ」と怒られます(泣)。


3.唯一神の起源について

佐倉さんは一神教の「始め」、偶像の否定の「始め」について、「聖書のどこを見ても、形を持つ異教の神々に対する軽べつ的傾向が満ちており、この点に関しては、段階的発展を示唆するような記述は、聖書のどこにもみられない、ということです」とおっしゃっておられます。それなら私の「唯一神の起源」などという問いは、その問題設定がすでにナンセンスということになるかと思います。こういう問いを立てること自体が「トンデモ」であるということで、すでに述べたように、私はアブラハムの召命と「柴」の箇所の落差、「十戒」と「イスラエルよ、聞け」の落差などに 段階的発展を示唆するような記述」を見出していたわけですが、これらはすべて単なる私の錯覚ということですね。なるほど「トンデモ」の人は、余人には見えないものを見て、余人には聞こえないものを聞くものですから、私の考えも「セブンイレブンはフリーメーソンの手先だ」「ローソンはメシアだ」「コンビニ戦争はハルマゲドンだ」という類いの、特殊な種類の妄想なのですね。

佐倉さんは「絶対王としての神への信仰は、おそくとも、統一王国以前の、部族連合(師士時代)時代には成立していたと考えられます」とおっしゃっておられます。「段階的発展を示唆するような記述は、聖書のどこにもみられない」のですから、「統一王国以前」という時期の判定は聖書の編纂がこの時代に着手されたということを唯一の根拠としているのだろうと思います。結局それは「始めから」としか言いようがない、と。そしてそれなら私の問いは再びもとのところに戻ってしまって、またしても「死後の世界」のまわりをグルグルまわってしまうことになります。


4.アートン信仰について

そもそも私は、ユダヤ教における一神教の成立にはイクナートンの宗教改革がなんらかの形で影響を与えているのではないか、という問題意識から出発したのでした。しかし私は、佐倉さんの回答がこの点についての言及を慎重に避けていることから、どうやらこの説はいわゆる「トンデモ理論」の類いらしいぞ、と思うにいたりました。

佐倉さんにしてみれば、苦心して運営しているHPで「トンデモ」が跳梁跋扈するのはあまり気持ちの良いものではないでしょうから、佐倉さんがお厭いのようなら、今後はこの論点は引っ込めようかと思っています。私としても、別に他人様のHPを汚すことを目的としているわけではないからです。

…あれ?


5.ごく初歩的な勘違い

ここまで書いて、私は自分がごく初歩的な勘違いをしていることに気付きました。既に佐倉さんは始めっから、私の勘違いに気付いておられたのでしょう?どうして教えてくれないんですか(笑)。佐倉さんが私の勘違いを指摘してくれなかった理由

(1)大沢の言葉は神の言葉であり、いかなる誤謬も含まない、と思っていた。
(2)間違いには自分で気付きなさい、という愛のムチ。私の発言が誤謬だらけであ
ることは明白ですし、佐倉さんが私を愛しているわけはありませんから、正解は、
(3)メールが長ったらしくて、うざったかった。
旧約聖書には死後の世界に関する記述がまったくないわけですが、鎌倉仏教は天台から出発したわけですから、それなら、つまり、私の結論は、「キリスト教徒は無知蒙昧のただのバカ」ということになります。ああ、支離滅裂だ。matsudaknhさん、ごめんなさい。

ちょっと頭が混乱してきたので、もう一度整理して出直します。すいません。


6.結び

最後でちょっと取り乱しましたが、とりあえず「イスラエルの王たち」についてはお答えしておきます。よろしかったらご検討ください。よろしくお願いいたします。話はあらぬ方向にブっ飛んでいきそうな気配なのですが、あまり長くなってもナンですから、また今度にします。

佐倉さんは既に、私が「唯一神の起源」とか「ダビデやソロモンは王ではない」とか「イクナートンの宗教改革」とか、訳の分からないことばっかり言ってるので呆れてらっしゃると思いますが、私は前回も申しました通り、佐倉さんの意見を批判的に検討して差し上げたいと思っています。佐倉さんがご自分の思索を深められていくきっかけになるような、そういう気の利いた批判を、です。しかしながら、力及ばず歯がゆい思いをしています。どうぞお怒りになられませんように、お願いいたします。

1999年7の月  大沢 清四郎(cbe45980@pop06.odn.ne.jp)


(1)王と神、人間と神

ダビデやソロモンがけっして神と同一視されなかったからといって、それはエジプトとイスラエルの相違を表わすとは言えないだろう。それは、それほどにまで王が神と同一視されている(王=神=ヤハウェ)ことの反対効果で、むしろエジプトとイスラエルの類似を示しているのではないか、と私は語っているのです。あるいは佐倉さんは、「神」とか「王」とかっていう概念を何か実体的なものとして捉えておられて、「機能的に等価」だとか「いずれにしても神王同一論」とか「すべて同じで、違うのは呼び方だけ」、というような飛躍した考え方は採用できないとお考えでしょうか。私は原理的にはどっちでも同じようなもので、それが現実にどっちの形をとるか(エジプトの「王→神」型か、イスラエルの「神→王」型か)がその共同体の抱える現実的な諸条件に左右されて異なるだけ、と思ったのですが。
わたしの説明がまずかったので混乱を招いたのだと思います。ダビデやソロモンがけっして神と同一視されなかった、という主張の眼目は、古代イスラエルの宗教においては、神はけっして人間と同一視されることはなかった、それは、たとえ王のような立場の特殊な人間でも例外ではなかった、ということです。神は常に人間や自然を超越した存在として古代イスラエルの人々にとらえられています。そこに、古代エジプトの宗教と古代イスラエルの宗教の間の重要な相違があると思います。

古代エジプトの宗教では、神と人間、神と王、神と自然、それぞれの間の区別がはなはだあいまいです。たとえば、しばしば、とりあげられているイクナトン(アメノフェス4世)の神であるアトンは、「日輪」(自然)であり、イクナトンの父アメノフェス3世(人間)でもある、といった具合です。そして、古代エジプトの王は、死んだらそのまま、神の世界の住人になるがごとくです。


(2)死後の世界

佐倉さんは、ユダヤ教に「死後の世界」の思想が見られないのは、エジプトの影響をほとんど受けていないから、その証拠にイスラエ ルの王たちは神と同一視されることはありません、とおっしゃっているわけですよね。
そうではありません。ユダヤ教は大いにエジプトの影響を受けているけれど、エジプトの宗教の影響はほとんど見られない。とくに、ユダヤ教における神観念というものには、エジプトの宗教と違って、神と人間との間には越えられない断絶がある。(だから、たとえば、イスラエルの王たちは、エジプトの王たちと違って、神と同一視されることはなかった。)そして、その断絶は、神は永遠に生きるが、人は死ぬ、(あるいは、永遠に生きるから神であり、死ぬから人間である)、という創世記に語られている古代イスラエル人の考え方と深く関連している。わたしの言おうとしたことはそういうことでした。


(3)落差と段階的発展

佐倉さんは一神教の「始め」、偶像の否定の「始め」について、「聖書のどこを見ても、形を持つ異教の神々に対する軽べつ的傾向が満ちて おり、この点に関しては、段階的発展を示唆するような記述は、聖書のどこにもみられない、ということです」とおっしゃっておられます。 それなら私の「唯一神の起源」などという問いは、その問題設定がすでにナンセンスということになるかと思います。それなら私の「唯一神の起源」などという問いは、その問題設定がすでにナンセンスということになるかと思います。・・・私はアブラハムの召命と「柴」の箇所の落差、「十戒」と「イスラエルよ、聞け」の落差などに「段階的発展を示唆するような記述」を見出していたわけですが、これらはすべて単なる私の錯覚ということですね。
わたしは、ユダヤ教における神の理解に落差がないとは思っていません。それどころか、時代的、地域的、個人的に、さまざまな落差があると理解しています。ただ、異教の神々に対する態度に関してのみ言えば、「聖書のどこを見ても、形を持つ異教の神々に対する軽べつ的傾向が満ちており、この点に関しては、段階的発展を示唆するような記述は、聖書のどこにもみられない」と言ったのです。わたしの聖書理解の不足かもしれませんが、ご指摘されている落差も、ユダヤ教が、かつては一時期、異教の神々に対して融和的な態度をもっており、また多数の神々の存在を認めていたが、あるときから、排他的になって、一つの神だけを認めることになった、というようなことを示している実例とは思われません。

もちろん、聖書以前については、すでに指摘しましたように、わたしには何とも言えません。単なる想像で言えば、ユダヤ教を生んだ人々の先祖は、イスラエル民族の自意識を持つ以前には、もともと、多神教的名残のうかがえる「我々」文献が示すメソポタミア・カナンの宗教を共有していたのではないかとも思われます。しかし、残念ながら、創世記でもなく、出エジプト記でもなく、申命記でもなく、先にも引用したデボラの戦勝歌こそが、現存する最古のヘブライ語の文献です。そして、そこでは、すでにヤーヴェはイスラエルの部族連合軍の軍神であり唯一神です。


(4)唯一神の起源

それなら私の「唯一神の起源」などという問いは、その問題設定がすでにナンセンスということになるかと思います・・・
もちろん、ナンセンスだとは思いません。また、
初発に「偶像の否定」がまずあって、「神は唯一絶対である」という原理・原則は後からついてくる。
というテーゼもおそらく正しいだろうと思います。おっしゃるとおり、必要性があってその正当化の理論が生まれるものだからです。ただ、もしそうならば、歴史的な起源だけにとらわれる必要もないのではないでしょうか。たとえイクナトンのアトン信仰がユダヤ教の唯一神の歴史的起源であるとしても、わずか十数年で失敗して、当のエジプトの宗教にはほとんどいかなる影響も与えなかった新宗教が、なぜ、イスラエル人だけに多大な影響を与え、これほど長い間もてはやされたのか、それを解明するほうが、アトン信仰とユダヤ教のつながりを解明するよりは、実りが多いのではないかと思われます。


(5)言い訳

その他、沢山の重要な問題を取り上げられていますが、とても一度には取り扱えませんので、別の機会に、また、コメントさせていただきます。