Hiroshi-Kです。再度の回答ありがとうございました。なんだか複雑な回答でしたので、困惑しております。

私が言いたかったことは、もっと単純だったのですが…。もう1度、整理します。

神は全知全能の絶対者である。 人間には誤認がある。神から啓示を受けても、それを誤認する場合がある。 聖書も人間が記したものであるから、当然そのような誤謬がある。 そういう人間の性質も神は知っているが(全知全能だから)、 「聖書は神が関与した書物である」という「前提」に立つならば、(これが重要です、前提です) 人間の誤謬性をも踏まえて、なおかつ聖書に何らかの(真理に対する)メッセージを込めているはずである。

という立場に立つことも可能だということです。 「その学問の理論(概念)は人間の関数である」ことを強調したつもりだったのですが…。

話を複雑にしてすみません。わたしは、二つに創造物語の矛盾は第二の物語を神の心の中の出来事にしてしまえば解消できる、という話だと思っていました。それで、そういう無理な解釈をすれば、解決した問題よりはるかに困難な問題を新たに作りだしてしまうこともある、という話になっていったのでした。

もともと、「はじめに」でもくわしく説明していますように、聖書の間違いシリーズは「聖書は神の言葉であるから、いかなる間違いも含まない」という立場を吟味することですから、それとは別の立場、

聖書も人間が記したものであるから、当然そのような誤謬がある。・・・[しかし]なおかつ聖書に何らかの(真理に対する)メッセージを込めているはずである
という立場、すなわち、「聖書は間違いもあるが、神の言葉も含まれている」、という立場に対しては、おっしゃられるように、聖書の間違いシリーズの諸論は説得力があるとは言えません。(もちろん、そのような立場は、「いかにして神のメッセージと人間のメッセージを区別するのか」という深刻な問題を含んでいますから、わたしの取る立場ではありませんが・・・)