はじめまして。Hiroshi-Kと申します。物理学の研究職に就いている者です。ひょんな切っ掛けで貴HPを知りました。まだ全てを読んだわけではありませんが、関心のあるところ「天地創造物語の矛盾」を読ませて頂きましたので、一考察をメールいたします。

もし森羅万象の創造主である神がいるとするならば、当然人間の心も創造したはずです。むろん「脳が心を生み出している」という説もありましょうが、私は諸々の理由から「心と脳は別物」と考えております。

さて、神が人間の心も創造できるのなら、当然神自身にも(人間より高レベルの)心がある筈です。すると「植物→動物→人間」という第1の創造物語は、「実際に起きた物質世界の進化の過程」を説明したものであり、「男→植物→動物→女」の第2の創造物語は、「神の心の中の考え」とは言えないでしょうか?つまり「構想を練っている時の筋道」が第2の物語だということです。

私は別にクリスチャンではありません。しかし仮に聖書が「神が関与して編纂された書物」とすれば、上記のように考えるしかないと思います。加えて言えば、いつ何時書かれたものであったとしても、そういった様々な伝承を1冊にまとめ、「人間に総体的な神の意思を伝えよう」とした神がいる、とクリスチャンは理解すればいいのではないでしょうか?

(1)調和化

「男→植物→動物→女」の第2の創造物語は、「神の心の中の考え」とは言えないでしょうか?つまり「構想を練っている時の筋道」が第2の物語だということです。
聖書を神の言葉であるとすれば、聖書に見える様々な矛盾は、何らかの方法で調和するように解釈されねばなりません。そして、それは、むかしから行われてきた方法です。ここで提供されているのも、このハーモニゼーション(矛盾の調和化)の一種です。

問題は、第二の創造物語は、実際の創造順序ではなく「構想を練っている時の筋道」だったのか、それとも矛盾を認めたくないための無理な解釈なのか、ということになります。前者ならば、いままで誰も気がつかなかった聖書の正しい意味を理解したことになりますが、後者なら、すでに信じている聖書信仰を正当化するために、事実(聖書に矛盾があること)に目をつむって、聖書を正しく理解することを拒否しているにすぎない、ということになります。

それでは、この問題の部分を、もう一度、ゆっくり読み直してみましょう。この創造物語は、はたして、神の創造構想中の心の中を述べた物語なのでしょうか。

創世記 2:4b-22a
ヤーウェ神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。ヤーウェ神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。ヤーウェ神は土の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。ヤーウェ神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。ヤーウェ神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせられた。エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。第一の川の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。その金は良質であり、そこではまた、琥珀の類いやラピス・ラズリも産出した。第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。第三の川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。ヤーウェ神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」ヤーウェ神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ヤーウェ神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形造り、人のところへもって来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。ヤーウェ神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、肋骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取った肋骨で女を造り上げられた。
まず明らかなことは、ここには、「構想を練っている時の筋道」であることなど、どこにも明記されていないことです。もちろん、明記されていなくても、そのことを間接的にでも示すような表現があれば、その解釈は妥当であると考えられますが、それを示すように思える間接的表現も見いだすことはできません。

それに、これが「構想を練っている時の筋道」とはとても考えられない部分が沢山あります。たとえば、ヤーウェ神はアダムを作ってみたものの「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということで、動物を造ります。そして、それらを人のところへもって来て、ヤーウェ神は「人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」のです。さらにまた、アダムは、それら動物の中に、「自分に合う助ける者は見つけることができなかった」ので、神は人を眠らせ、「人が眠り込むと、肋骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取った肋骨で女を造り上げられた」というのです。これらの記述は、構想中の神の心の中を描いたものとはとても考えられません。

つまり、第二の創造物語を素直に読んだだけでは、「これは神の創造物語ではなく、神の創造の構想の物語である」、という解釈はとてもできません。数千年の聖書解釈の歴史の中で、そのような解釈をした人が、Hiroshi-Kさんが現れるまで、誰もいなかった(らしい)ことは、このことを如実に物語っています。

したがって、わたしは、この第二の創造物語を構想中の神の心の記述であるとする解釈は、ただ単に矛盾を認めたくないがゆえになされた、はなはだ不自然で無理な解釈(調和化)であり、この物語が述べていることを正しく理解しようということから生まれた解釈ではない、と断定せざるを得ません。


(2)現代キリスト教は聖書の無誤謬性を主張しない

私は別にクリスチャンではありません。しかし仮に聖書が「神が関与して編纂された書物」とすれば、上記のように考えるしかないと思います。加えて言えば、いつ何時書かれたものであったとしても、そういった様々な伝承を1冊にまとめ、「人間に総体的な神の意思を伝えよう」とした神がいる、とクリスチャンは理解すればいいのではないでしょうか?
「別にクリスチャンではありません」といわれるHiroshi-Kさんが、どのような動機で聖書矛盾の調和化ということを試みられたのか、わたしにはわかりませんが、キリスト教神学者自身による聖書批評学はもうすでに100年近くの歴史を持っており、現代キリスト教の多くは、すでに、聖書の無誤謬性を主張することは止めています。聖書が間違っていることはもう多くのクリスチャンの間でも「常識」となっています。そのため、かれらは、聖書を神の言葉としてその無誤謬性を主張する「ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)」と呼ばれている人々からは距離を置いています。キリスト教原理主義者の羞恥心のない聖書矛盾の調和化がクリスチャン一般に対する人々の信頼を失わせかねないからでしょう。