佐倉さん、はじめまして。HP楽しく拝見させていただきました。感想と、それから質問をいくつかさせてください。インターネット初心者なのでネット上での作法など至らぬ点があればお許しください。よろしくお願いいたします。

1.全体の感想

全体と言っても情報量が膨大なためキリスト教関係にしか目を通していないのですが、この範囲では一言で言うと佐倉さんの姿勢がとても新鮮で印象的でした。たとえば佐倉さんはその批判の対象をファンダメンタリストの主張に置いておられますが、「ファンダメンタリスト」という単語は現在ほとんど口にされないとってもレトロな言葉です。

あるいはこれは佐倉さんがアメリカにいらっしゃるからかもしれませんが、現在の日本では佐倉さんが「ファンダメンタリスト」と呼んでいるようなものは、通常「トンデモ」と呼ばれています。「トンデモ」には原理主義以外にも、UFO、超能力、予言、偽史$疑似科学、イルカ、競馬…などといった諸々のジャンルがすべて含まれるのですが、そういったものを乱暴に全部ひっくるめて「トンデモ」と呼び、積極的に面白がって笑い飛ばそうという態度が近年爆発的に広がっています。個々のジャンルを区別したり、あるいはそれぞれの主張を検証したりといった手続きをすっ飛ばし、しかもそれを無視するわけでもなく、むしろ積極的にアクセスしようとする。目的はただ面白がることです。

こういうシニカルな態度が隆盛を極める一方で、反対に極めてナイーブにその手のものにのめり込んでしまう人たちも多く、書店のオカルトコーナーはいつでも大盛況です。なんかすごくバランスの悪い世の中になってるなあ、という気がします。私はこのような二極分解の風潮が、オウム真理教と幸福の科学という当代の二大新新宗教を生む母胎となったと思います。アメリカのファンダメンタリストたちにも困ったものですが、日本は日本でやっぱりちょっと変です。

みたところ佐倉さんのHPにも「来訪者の声」の中にはトンデモ系の方が数多く紛れ込んでいらっしゃるようですが、佐倉さんは無責任に面白がるわけでもなく、あくまでも真面目に、しかしながら批判的な姿勢を崩さずに、この問題に取り組んでおられます。考えてみれば佐倉さんのスタンスは極めて真っ当で正当なものなのに、それが新鮮に見えてしまうという状況は困ったものです。いろいろ大変だと思いますが頑張って頂きたいと思います。

読んだのはキリスト教関係のページだけですが、やっぱり「来訪者の声」のコーナーが一番面白いと思いました。別に佐倉さんの論文がつまらないわけではありませんが、メディアの性質上このような相互的でダイナミックな(インタラクティブっていうんですか?)ページがより面白いのだと思います。もっともこれは私が不慣れなインターネットに興奮しているだけなのかもしれませんが。そんなわけで次は「来訪者の声」の感想です。


2.「来訪者の声」の感想

単純に一番面白かったのはKeizo Uchidaさんでした。もちろんUchidaさんの主張自体も大変面白いのですが、佐倉さんがそれに「あやしげなオカルト本らしきもの…」と答えているのに彼我のギャップを感じました。佐倉さんの興味の対象は「ファンダメンタリストの主張」なのでしょうが、私たち99%の日本人にとっては『聖書』自体がかなり「あやしげ」ですし、ましてや「ファンダメンタリスト」ならそのイメージは「オカルト」そのものだからです。私はユダヤ%キリスト教の神もUchidaさんの神もたいした違いはないと思いますし、現時点では「ちんこの皮を切れ」などと訳のわからないことを要求するような神よりはUchidaさんの神のほうが無害なぶんだけマシだと思います。

バイブル%コードについて心配されている方もいらっしゃいましたが、目前に迫ったノストラダムスの終末予言を心配したほうがいいと思います。同程度にインチキくさいものなら、差し迫ったほうを心配するべきです。人類滅亡まであと半月だあ。その他にも、地球の年齢が1万5千年とか、宗教の人の議論は奥が深いなあと思いました。それからスィーリングの名前も出てきてましたが、これは『エヴァンゲリオン』以来の日本の流行です。なんでもイエスは武装革命集団のリーダーで、蜂起に失敗して十字架にかかったが、すんでのところでワインに混ぜた薬で一時的に仮死状態になるというトリックをもちいて命拾いして、イスラエルから逃亡してマグダラのマリアと結婚して子供までつくって70歳まで生きた、ということが聖書の暗号を解読すると分かるのだそうです。その暗号は死海文書を分析すると解けるらしいです。なんか、どこかで聞いたような話の集大成みたいな本です。

私は検索エンジンでHPにたどり着いたのですが、別にキリスト教原理主義に特別な興味があったわけではありません(このHPのせいでがぜん興味が湧いてきてしまいましたが)。本来の私の関心から行くと、Wejloveさん、プータンさんお二人とのやり取りが面白かったです。というのは、あるいは私の勘違いかもしれませんが、このお二人の論法は、キリスト教に限らず、私の周りの「宗教の人」が私のような無信仰の者に対して教義を主張するときのふたつの典型的なパターンに思えたからです。Wejloveさんの目的論的な世界解釈から超越性へと進む論理、プータンさんの形式論理で反論を遮断する論理。とってもデジャ%ビュな感じがします。私の見たところではWejloveさんのパターンが一般大衆御用達の論理で、インテリで本とかいっぱい読んでるような人はプータンさんのパターンを採用されることが多いようです。有名どころでは前者が三浦綾子型、後者が犬養道子型、という感じ。両者を足して「義理人情」で割った折衷案が遠藤周作型でしょうか。

皆さんがこぞって採用する論法ですから、ここには宗教的なものについての本質的な何かがあるのではないかと議論の行方に注目して読んだのですが、中途半端になってしまったのは残念でした。特にプータンさんの「前提」に関する議論はとても興味深いものに思えたのですが、プータンさんがせっかくの論点を変なところに帰着させてしまい、佐倉さんがまたそれに付き合って変なところに行っちゃったので、問題の所在が分からなくなってしまった、という感想を持ちました(佐倉さんの立場からすれば、単に形式的に論駁すれば足りるのではなかったでしょうか。そこを変な風にがんばっちゃったもんだから、前提は覆せる、たとえば帰謬法という推論がある…という佐倉さんの主張は完全に倒錯しています)。

プータンさんと佐倉さんはそれぞれ対立する主張をお持ちなわけですが、私にはお二人が仲良く一緒に論点をずらしていったように見えました。お二人は表面上対立し合っているのですが、どこか別のところではとても近しい思想をお持ちなのかもしれない、と。私はそれが知りたかったのですが、どちらもインテリらしいぞってことしかわかりませんでした。残念です。

そんなわけでお二人の議論が再開されることを外野から期待しているのですが、HPの本来の目的からは外れたところなので、ちょっとむずかしいのかもしれませんね。

あ、それからデカルトをまるでバカみたいにおっしゃってますが、ここんとこの議論はちょっと違うんじゃないかと思いました。

以上、感想でした。続いていくつか質問させてください。


3.質問その1/エノクにおける「死後の世界」

まずは軽めのやつから一発。

「聖書における『死後の世界』」で、佐倉さんは旧約は死後の世界にはまったく関心を持ってないと言われています。そうですか、と思って読んでたんですが、その昔聖書を読んだときのことを思い出してしまいました。聖書、とくに『創世記』は訳のわからないところがいっぱいある本なんですが、『創世記』の5−24に「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」というのがあります(なんせ昔の記憶なので見付けるのに苦労しました)。ここはアダムの系図がダラダラと無機的に書いてあるチャプターで、アダムの子孫は皆とんでもなく長生きしたあげく、極めて即物的に死ぬのですが、なぜかこのエノクだけがこういう「いなくなりかた」をします。他は皆「○×△歳まで生きて、死んだ」なのに、どうしてエノクだけ「神が取られたのでいなくなった」なのでしょう。

ふつうに考えればこれは「死んだ」ということの詩的な表現ですが、この文脈の中に置かれるとこのセンテンスだけがなんとも異様です。マリアのように(あるいはイエズスのように)昇天したように読めてしまいます。あまりに異様なので私はずっと憶えていたのです。

これはどういう意味ですか?


4.質問その2/絶対王にして軍神たる唯一神の起源

佐倉さんの説ではヤハウェ神は一神教と多神教の習合の産物です。そしてその性格は「絶対王」であり「軍神」です。これは素直に考えれば「一神教=絶対王」と「多神教=軍神」が習合したということになります。なんとなれば唯一神はその定義から絶対なる概念と相性が良く、軍神すなわち軍事をもっぱらにする神の存在は神の専門分業体制を前提していると考えられ、多神教的であるからです。この理解でよろしいでしょうか。

あんまり自信がないけど、まあいいとしよう。さて、これは昔柄谷行人の本で読んだのですが、フロイトが「モーゼはエジプト人だった」ということを言っているそうです。私はあまり勉強熱心ではないのでこのフロイトの本を読んでいないのですが、柄谷行人によると、モーゼはエジプト人で、王家につながる血筋の、それなりの権力者だった、というのがこのフロイトの仮説なんだそうです。

その昔、隆盛を極めて世界帝国となったエジプト第18王朝にイクナートンというファラオが現れて、激烈な宗教改革を行いました。伝統的なオシリス信仰を撤廃して、唯一神アートンを掲げる一神教を興したわけです。ところがよくあるパターンで急激な改革は反動を生み、イクナートンの死後にアートン信仰は滅ぼされてしまいます。このときのファラオがあのツタンカーメンで、エジプトは一時的にむちゃくちゃな大混乱になったといいます。で、嘘か本当か知りませんが、このエジプトがむちゃくちゃな大混乱に陥っていたポスト・イクナートン時代が、聖書の述べる出エジプトの時期と一致するのだそうです。このことから、モーゼはエジプト王家に繋がる人間で、挫折した宗教改革を実現させようとしていた人物だった、という推理が出てくるわけです。聖書によれば、ユダヤ人の捨て子が王妃に拾われて王子として育てられたことになってるのですが、確かにこんなありそうもない与太話よりは、もともと王家の人間だったというほうがマシだからです。エジプトはむちゃくちゃになっていたのでモーゼは祖国に絶望し、一神教の新たな国家を打ち建てようとしました。国家をつくるには国民と国土が必要ですから、そこでモーゼは、どういう理由かわかりませんが、ユダヤ人とカナンの地を選び、集団で移住したのです。

余談ですが、私がこれを読んだのは高校時代でありまして、えらくショックを受けたものです。当時の私はユダヤ教、キリスト教、イスラム教は一神教だ、ということは常識として知っていました。また、しかしながら人類最初の一神教はユダヤ教ではなく、イクナートンのアートン信仰だということも、常識として知っていました。学校の世界史で習うからです。しかしその二つの知識をこういう形で結びつけるという発想がなかったものですから、そんなことは思いもよらず、びっくりしてしまったわけです。なぜなら私の中ではイクナートンやアートン信仰は歴史の問題であり、聖書の出エジプトの記事は神話であり御伽噺だったからです。私は聖書は神話であり御伽噺であると信じて疑っていませんでした。ファンダメンタリストの皆さんとはちょうど正反対だったわけです。ちなみに99%の日本人の中にはイエズスは想像上の人物で、実在したわけではないと思っている人たちがかなりいます。イエズスが名前で、キリストが苗字だと思っている人はもっと大勢います。

さて、このフロイトの説はどこまで信じていいのか分かりませんし、だいたいフロイトの言ってることを真に受けるとバカを見るというのは現代の常識ですから、あくまで眉に唾してみなければいけません。その上でモーゼがエジプト人だったというのはあまり信用できない話なんですが、そのへんの具体的なプロセスは分からないにしても、ユダヤ共同体における一神教の確立にはなんらかの形でアートン信仰が影響しているというのは信用できるような気がします。佐倉さんはヤハウェ神が絶対王にして軍神であるのは、エジプトとメソポタミアの影響であろう、とされているわけですが、この点についてはどうお考えでしょうか。エジプトとメソポタミアの「王と家来の関係」が、ユダヤの「神と人間の関係」に転化された、というのが佐倉説ですが、「神と人間の関係」はやはり「神と人間の関係」からもたらされたと考えるほうが自然ではないでしょうか。

それというのも、私には、もしも佐倉さんの説が正しいとするなら、ヤハウェ=アートン仮説はとても収まりが良いと思われるからです。というわけで次の質問。


5.質問その3/「聖書における『死後の世界』」とオシリス信仰

質問1.で取り上げた佐倉さんの論文「聖書と『死後の世界』」は、旧約聖書には「死後の世界」という考え方がまるでない、旧約は死んだ後のことにはまったく関心を持っていない、というものです。

また質問2.の論点は木村直之さんとのやり取りの中で佐倉さんがおっしゃっていることで、ユダヤ教の神はメソポタミア・エジプトの王をモデルとして「絶対王」としての性格を持っており、また一方メソポタミア・エジプトに対抗するための「軍神」の性格も持っている、というものです。

だとすると困ったことになります。というのは、私は不勉強なもので詳しいことはよく分からないのですが、「死後の世界」の思想はメソポタミアにもエジプトにもあったからです。だいたい、ユダヤ教には死後の世界の思想がないのでキリスト教はそこから逸脱した宗教だ、というのはその通りだとしても、大きな視点で捉えれば、宗教は一般に死後の世界には興味を持つもので、ユダヤ教のほうがむしろ珍しい例なのだともいえるでしょう。聞くところによれば、ブッダは天国も地獄も否定したと言いますが、ブッダの死後にそれはあっさり覆されて現在では見る影もありません。極楽や浄土の大安売りです。キリスト教は、ユダヤ教という変な宗教から出発して、やがてよくあるパターンの凡庸な宗教に回帰したのだ、とも言えます。クリスチャンはこれを、より普遍的なものに高められた、と言うでしょうけれども。

ちょっと話が逸れてしまいましたが、ともかく、死後の世界になんの興味も持っていないユダヤ教のほうが変なのです。メソポタミアはさておき、エジプトの伝統的なオシリス信仰はまぎれもない「死後の世界の宗教」です。ほとんど死後の世界にしか興味がないんじゃないかというぐらい、それに執着しています。それは、手間隙書けて死体をミイラにしてキンキラキンに飾り立て、バカみたいにでかい墓に埋葬するという、ほとんど偏執的なまでの執着です。

だとすると、神の性格を「絶対王」にして「最強の軍神」としてしまうまでにエジプトの影響をうけたユダヤ教が、どうして「死後の世界」の思想についてだけその影響を免れることができたのでしょうか。

佐倉さんはどのように思われますか。


6.結び

なんか思ったより長いメールになってしまいました。お忙しいところを申し訳ありません。最後になってしまいましたが私のデータです。私は聖書およびキリスト教に関心を持っていますが、信仰は持っていません。信仰はもっていませんが、まわりにクリスチャン(カトリック)が多いので、99%の中ではキリスト教にはなじんでいるほうだと思います。聖書は一応一通り目を通してはいるのですが、読みこんでいるというほどではありません。現代聖書学についても興味はもっているのですが、詳しいことはなにも知りません。聖書は文語訳と新共同訳を持っていて、新約のみフランシスコ会訳を使っています。註が付いてて便利だからです。ちなみにフランシスコ会訳ではキリストの名前は「イエズス」です。「ズ」の一文字にカトリックの権威的な体質が滲み出ているという説もあります。新共同訳の「イエス」は画期的な事件だという話を聞いたこともあるな。私は宗教や哲学・思想については興味はありますが、きちんとした訓練は受けていません。大学で学んだのは法律です。律法ではなくて。

私はいじめにも大変興味がありますから、今度はそっちに行ってみようと思っています。

突然のメールにて失礼しました。

99年6月21日  大沢 清四郎


P.S. 佐倉さんのおっしゃるように、「契約思想」も「死後の世界への無関心」も「絶対王にして軍神という神の性格」もユダヤ教の特徴です。それに更に一つを加えるなら、やはり「一神教」が際立った特徴です。ただ私が考えるには、それが一神教であり、神が唯一絶対であることは、それ自体としてはただのお題目です。へんな表現ですが、たとえ民法や刑法がどれだけ詳細に厳格に規定されていても、実体法を実現する手続法がなければその内容はまったく無意味です。同様に、実質的に一神教を一神教たらしめるのは、「神は唯一絶対である」というテーゼではなく、そこから帰結される「偶像の否定」という効果のほうだと思います。

「偶像の否定」は佐倉さんのエッセイでも一項目を立てて論じられるべきテーマであると思います。

(1)エノク

どうしてエノクだけ「神が取られたのでいなくなった」なのでしょう。
聖書はこのことについてなにも語っていませんから、想像することしかできません。たとえば、聖書よりも古く、聖書の記者達が参考にした古いエノクに関する伝承には、聖書に残されている以上のことがらが、言い伝えられていたと考えられます。そのために、エノクが「神と共に歩」んだ、とか、「神がとられたからいなくなった」など、他の人物に関しては語られていない表現が残っているのだと思います。ところが、この部分(祭司資料かそれに近いD資料)を編集した人(々)は、天界とか天使とか信じていなかった人(々)ですから、エノクに関する「迷信的」伝承は切り捨てられたのだと考えられます。つまり、最終的にこの部分に筆を加えた人(々)は、「神が取られたのでいなくなった」を「死んだ」と解釈した、ということになります。


(2)絶対王とは軍神かつ治世神

軍神すなわち軍事をもっぱらにする神の存在は神の専門分業体制を前提していると考えられ、多神教的である
そうではなく、「絶対王=軍神=一神教」が、わたしの理解です。かつての王は、たとえば、ネブカドネザルのように、同時に軍隊の指揮者です。
佐倉さんはヤハウェ神が絶対王にして軍神であるのは、エジプトとメソポタミアの影響であろう、とされているわけですが、この点についてはどうお考えでしょうか。エジプトとメソポタミアの「王と家来の関係」が、ユダヤの「神と人間の関係」に転化された、というのが佐倉説ですが、「神と人間の関係」はやはり「神と人間の関係」からもたらされたと考えるほうが自然ではないでしょうか。
ヤハウェ神が絶対王であるということの意味は、外交に関して言えば軍神であるわけですが、内政に関して言えば、ヤハウェ神は契約の神であるということです。ヤハウェ神はイスラエルの民が守るべき律法を与え、これを守らぬものを罰することによって、イスラエルの社会を治める治世神です。ユダヤ教におけるヤハウェ神は、何よりも、この治世神(契約の神)であるところにその最も顕著な特色があります。聖書を見れば明らかなように、ヤハウェ神は、具体的に、イスラエルを守る軍の指導者としての王であり、イスラエルの社会を治める政治指導者としての王である、と考えられています。

つまり、社会を直接統制する機能をもたされたヤハウェ神は、そういう機能をまったくもたないエジプトやメソポタミアの神々ではなく、エジプトやメソポタミアの強力な政治に対応するのです。古代イスラエル人は、始めから、エジプトやメソポタミアの神々を軽べつしていたと考えられます。それは、聖書に一貫して見られる、偶像崇拝に対するきわめて激しい蔑視的態度(「偶像はいかなる力ももたない」)からも想像されます。創造神話や洪水神話やバベルの塔神話など歴史以前の物語を除いては、わたしは、エジプトやメソポタミアの宗教のユダヤ教への影響をほとんど見いだすことはできません。

このため、戦争や治世を直接任されたヤハウェ神は、具体的に戦争や治世を直接任されていたエジプトやメソポタミアの絶対王をモデルにして理想化されたものに違いない、とわたしは思っているのです。『詩編』などを読んでいますと、イスラエルの民がヤハウェ神になにを望んでいたか実によく伝わってきます。ヤハウェ神はあきらかに実権をもった王(軍神かつ治世神)としてイメージされているのです。


(3)絶対王と死後の世界

神の性格を「絶対王」にして「最強の軍神」としてしまうまでにエジプトの影響をうけたユダヤ教が、どうして「死後の世界」の思想についてだけその影響を免れることができたのでしょうか。
すでに指摘しましたように、古代イスラエル人は、始めから、エジプトやメソポタミアの神々を無力な偶像として軽べつしており、すくなくとも神の理解に関しては、宗教的な影響はほとんど受けていないとおもわれますから、「死後の世界」の思想について、その影響を免れることができたのは、別に不思議なことではありません。

それに、エジプトの王は自分たちを神と同一視する傾向があるようですが、イスラエルの王たちは、たとえ、ダビデやソロモンであろうと、けっして、神と同一視されるようなことにはなりません。失楽園の物語を見ればわかるように、永遠に生きるのは神々だけにゆるされた特権です。永遠の命は神の属性であって人間の属性ではありません。

主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」(創世記 3:22)
そのため、「命の木」から人間がその実を取って神のように永遠に生きるようにならないようにと、神は人間をエデンから追放するわけです。神だけが永遠に生き、人間は「塵からうまれ塵に返る」存在だからです。アダムは神のようになろうとしたので追放されたのです。神はアダムにはっきり言います。
塵にすぎないお前は塵に返る(創世記 3:19)
と。ユダヤ教においては、人間と神との間には絶対的な断絶があります。ヘレニズムの影響から生まれたキリスト教のイエス像のように、人間だか神だかわからないような存在はユダヤ教においてはあり得ません。ヤハウェ神の超越性が、人間を神格化するような「永遠の命の思想」がユダヤ教では育たなかった理由のひとつだと考えられます。


(4)偶像崇拝の否定

実質的に一神教を一神教たらしめるのは、「神は唯一絶対である」というテーゼではなく、そこから帰結される「偶像の否定」という効果のほうだと思います。
卓見だと思います。聖書の神は、繰り返し繰り返しイスラエルの民に、異教の神に仕えることを固く禁じています。その伝統を受け継ぐキリスト教も沢山の異教を滅亡させただけでなく、キリスト教内においても、異端狩りに熱心でした。