こんにちは、京都市に住む有本康夫と申します。宜しくお願い申し上げます。

ご貴殿のHPに投稿されている他の方々に比べれば、かなり次元の低い意見かもしれませんが、佐倉さんのご意見を教えていただければと思います。

最近イエスの12人使徒の経歴を4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)で調べてみたのですが、マタイ福音書で示されている(9/9〜と10/3〜)様な使徒マタイが収税人である説明が、マタイ福音書だけのもので、マルコやルカは収税人レビ(マコ2/13・ルカ5/27)を弟子にしたいきさつは、説明されていますが、12人使徒の任命のところでは、ただ単にマタイとなっていて(マコ3/18・ルカ6/15)、レビとマタイの関連性はどこにも説明がありません。

聖書学者の多くはマルコ福音書が最も古いテキストとしているので、この部分もルカはマルコ福音書の内容をすんなり書き写したのだと思いますが、マタイ福音書の編集者たちは、何らかの意図があって収税人をマタイに変えて12人使徒任命の所でも収税人の言葉を足したのでしょうか。

当時の収税人は民衆から罪人と同様に(マタイ9/11)卑しまれた人達の様で、マタイの編集者はイエスが最もさげすまれた人からも12人使徒(スタッフ)を選出した事で、民衆の中のイエスを描こうとしたのでしょうか。

どうも失礼しました

(1)レビとマタイに関する福音書の記述

十二弟子のリストに関する福音書の記述。

[マタイ10:3] 十二使徒の名は次のとおりである。・・・トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブ・・・

[マルコ3:18] こうして十二人を任命された。・・・マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ・・・

[ルカ6:15 ] 十二人を選んで使徒と名付けられた。・・・マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ・・・

収税人への呼びかけに関する福音書の記述。

[マタイ9:9〜 ] イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子達と同席していた・・・。

[マルコ2:14〜] そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事をしておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子達と同席していた・・・。

[ルカ5:27〜 ] その後イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして自分の家で盛大な宴会を催した。そのには徴税人やほかのひとびとが大勢いて、一緒に席に着いていた・・・。

おっしゃる通り、これらの福音書間にはいくつかの相違が見られます。まず、(ア)十二弟子のリストでは、使徒マタイが、他の二つでは単に「マタイ」と呼ばれているのに、マタイ福音書の場合のみ、使徒マタイは「徴税人マタイ」と呼ばれています。(イ)イエスが収税所に座っている人物を見つけ「わたしに従いなさい」と呼びかけた人物は、マルコでは、「アルファイのレビ」、ルカでは「レビという徴税人」、マタイでは「マタイという人」となっています。

(2)なぜマタイ福音書の著者・編者は「レビ」を「マタイ」に変えたのか

当時の収税人は民衆から罪人と同様に(マタイ9/11)卑しまれた人達の様で、マタイの編集者はイエスが最もさげすまれた人からも12人使徒(スタッフ)を選出した事で、民衆の中のイエスを描こうとしたのでしょうか。
その可能性は十分にあると思います。学者の間でも諸説があり、いずれも決定的ではないようです。

わたしは、マタイの著者が「マルコの間違い」を修正したのではないかと思っています。現存するマルコの写本のなかには、収税所でイエスに呼びかけられた人物が、「アルファイの子レビ」ではなく、「アルファイの子ヤコブ」となっているものがいくつかあります(Dennis C. Duling, "Matthew", The Anchor Bible Dictionary, V4, p.621)。なぜ、これらの写本では「アルファイの子レビ」が「アルファイの子ヤコブ」に変えられているのでしょうか。おそらく、これらのコピーストたちは12弟子の一人が「アルファイの子ヤコブ」であることを熟知しており、その知識が、かれらがコピーしようとしたマルコのコピーの「アルファイの子レビ」という表現が間違っている、という認識を与えたからではないかと思われます。

同じように、間違いを修正しようとする動機がマタイにも働いたのではないでしょうか。つまり、イエスの「わたしに従いなさい」という呼びかけに対して、弟子になった人物が、12弟子の中にいないのはおかしい、と思ったのではないでしょうか。それで、「レビ」という人物を、12弟子の中で唯一レビ人であると考えられた「マタイ」と置き換えたのではないでしょうか(同上, p.620; Goulder, M. D., "Midrash and Lection in Matthew", 1974)。

現マルコにおける「アルファイの子レビ」の「アルファイの子」という部分は、マタイにもルカにも受け継がれていません。そのため、「アルファイの子」はヤコブであることを知っていたマタイやルカが、マルコの間違いを修正するために脱落させたか、あるいは、マタイやルカが知っていた原マルコには「アルファイの子」という表現はなく、マタイとルカの成立後にマルコにまぎれ込み、今日に至ったのではないかと思います。

いずれにしても、福音書というものは、イエスについての客観的な事実が、そのまま、わたしたちのところに伝えられてきたものではなく、多くの人物の手によって、彼らの主観的な判断によって、既存する資料が選り分けられ、在る部分は付け加えられ、ある部分は脱落させられ、ある部分は書き換えられたりしながら成立した、はなはだ人間的な記録の集成であることがわかります。