私は、38歳の世界基督教統一神霊協会の人間です。

ニ−チェが大好きで、この世の中に、神の働きを感じられず、目的もなく、死んだように生きて居ました。(形だけは恵まれてましたが…)しかし、ある時、「もっと面白いことが起こらないかな」と求めてみると、(変なことに、今思うと死んだはずの神にだと思うのですが…)その3日後に統一教会の人に伝道されました。

ご存じかどうか知りませんが、統一教会では、「神は親だ」ということにPointを置くのですが、世の不平等(私は恵まれていたのですが、親にしたら、ずいぶん依怙贔屓する姿に対し私が出した結論が「神が死んだ」となったほど沢山ある周囲での問題を見て)からこの事で前に進まなくなってしまいました。

そこで、以前の体験から本を読んでも、人に聞いても混乱するだけなので、「神様、生きてますか?あなたは、私の親ですか?」と毎朝早朝から起きて一心にお祈りをしてみてみました。そうすると、そのころは、(営業の仕事をしていたのですが)朝神様と打ち合わせた通りに物事が進むので、「あれ、神様は、生きているのかな?」と思いだして、もっと真剣に祈り続けました。

そんなある日、友人宅を訪問したその帰りに「じゃあね」と別れて友人のマンションのドアを出た瞬間そのマンションの壁が、ドロドロになって私を包み込み、「愛おしい!」と溶かし込まれるような体験をしました。そして、その後三時間ぐらいだったと思いますが、出会う人、一人一人が初めてにも、関わらずもう抱きしめたいくらい愛おしくて、愛おしくてたまらず,「もし神の愛に満たされたらこんな風に人を愛せるのなら神を親として良かろう」と結論して14年神と共に生きて来たつもりです。(ここにはクリスチャンが多いのでお前のは神の働きじゃないと言われそうですが…)

私の聖書に対する見方は、逐語霊感説をとりませんが、でも、ファンダメンタリスト=聖書に盲従=危険人物化しかねないと思いません。そうでなくて、儀式化された信仰生活の中で聖書の言葉に依りすがらないと不安になるときに、ファンダメンタルな考えの人が危険になるのではと思います。

(ルカの10/25のサマリヤ人の話しなんか見ると)聖書の中のイエス様は、案外私たちの良心を信じて下さっているのに、どうも教父たちからスタ−トした“原罪”を強調して、救いの必要性を説く時に反動で人間の良心を信じない傾向が強まったことが問題のような気がします。だいたい、同じ聖書を使っていてもユダヤ教もイスラム教も正教も“原罪”なんて言わないし、正教の体質から言ってロシア正教原理主義なんて出てこなそうだし…結局良い宗教・悪い宗教と別れるんじゃなくて良い人と悪い人とにわかれるのでは…と簡単に意見を書かせていただいて…。

わたしも、このHPを見たとき最初は堀剛さんのように思いましたが、しかし、佐倉さんの意図に依らず(かな?)このHPに神が生きて働いているのを感じましたので感想を書かせていただきました。

わたしもいろんなクリスチャンの人と会ってきましたが、「神はいる」と言っても「神は生きている」教えてくれるクリスチャンの人にあまり会えませんでした。これは、いろんな理由が(キリスト教全体の問題も)あると思いますが、でも“日本のクリスチャンは平和過ぎるのでは?"と思えるのです。私は、迫害や非難を通し沢山のことを学び、それにより神に対しての確信がついてきました。

アメリカのクリスチャン達は自由神学の洗礼を受け、ブルトマンの言う使徒達のように自分のキリストと向き合った人もいると聞きます。その意味において、私の周囲のクリスチャンで魅力を感じる人が少ないのは、“平和ぼけ"居ているように思うのです。だからこのHPを、「私たちに何故開かせたか」神に答う前に自分の判断を下してしまうのでは、と思わされるのですが。どうでしょうか?

佐倉さんは、日本人にキリスト教はあわないと思っておられるようですが、私は、1549年に日本にキリスト教が広がったとき、「東洋で最初のキリスト救国になるのは日本だ」と迄言われたのを聞き感動しました。その時の人々(特に真言宗系の僧侶)が「自分が救われたのはよいが、死んだ我が父母はどう救えばよいか?」と真剣に詰め寄るので、ザビエルも困ったと聞きますが。はたして、私の周囲にその様なことを悩んで考えるクリスチャンは見あたらないです。

そんな風に考えると、このペ−ジを通し沢山の混乱を与えることも素晴らしいと思ったわけです。

佐倉さんは玉川大の前島先生をご存じですか、「後ろ姿のイエス」という本なんか、面白いですよ。

今後ともますます頑張って下さい。


(1)神の死

ニ−チェが大好きで、この世の中に、神の働きを感じられず、目的もなく、死んだように生きて居ました。
神がいなければ存在には目的がなく、目的があたえられなければ「死んだように生きて」いかざるを得ない、などという感傷は、みずからが自分自身や仲間のための価値の創造者となることを考えない、一種の「甘え」だと思います。(「神がいなければすべてはむなしいのでは」「神がいなければすべてはむなしいか -- 感想」参照。)

それに、「ニ−チェが大好きで」いながら「死んだように生きて居ました」というのは矛盾しています。ニ−チェの世界は生を積極的に肯定するとても明るい世界です。かれはみずからの中にある生へ肯定的衝動そのものを素直に受け入れて、生に対して「ヤー」を言いました。ニーチェの文学は生の讃歌です。かれは、神という虚構をまず想定して、その虚構に生の意味を与えてもらおうなどと策略するキリスト教の屈折した自己欺瞞的な生の肯定方法を批判したのだと思います。


(2)幻覚体験

朝神様と打ち合わせた通りに物事が進むので、「あれ、神様は、生きているのかな?」と思いだして・・・そんなある日、・・・そのマンションの壁が、ドロドロになって私を包み込み、「愛おしい!」と溶かし込まれるような体験をしました。そして・・・14年神と共に生きて来たつもりです。
マンションの壁のような精神現象は、LSDなどを利用しておこる幻覚症状とまったく同一です。ジム・デコーンはその著『ドラッグ・シャーマニズム』のなかで、主観(自己)と客観(対象)が一体となる「天にも昇る心地を体験した」と言っています。LSDなどの薬物を利用しないでも、体調や精神的の影響でも同じような幻覚症状は生じることでしょう。覚醒時の入眠幻覚は「空想壁の強い人」(吉本隆明『共同幻想』58頁)であれば可能です。

残念なことは、幻覚体験の物語というものは、それ自体で、神の存在についてなにも教えるものではなく、ただ、体験者がそれをみずからに興味ある事柄と結びつけて解釈するに過ぎないことです。だから、「東洋宗教に興味を持っていた」ジム・デコーンは、かれの幻覚体験を「サマディ(瞑想)」に結びつけ、『遠野物語』の登場人物たちはかれらの体験を「おそろしい山人」と結びつけ、kobayashisさんは「親なる神の愛」に結びつけることになります。

「朝神様と打ち合わせた通りに物事が進む」のであれば、なぜ、その「神」は阪神震災のような、毎日おこる災害や事件をあらかじめ教えて、ひとびとを守らないのでしょうか。ほんとうに「神様と打ち合わせ」たのでしょうか。そう思い込まれただけなのではないでしょうか。ほんとうに「神と共に生きて来」られたのでしょうか。そう思い込まれてきただけなのではないでしょうか。これは神との出会いかそれとも単なる人間の思い込みかという、重大な区別です。どのようにしてその区別をなされるのでしょうか。すべての神体験は、それが、単なる思い込みでないことを客観的に確認する方法示さねば、まったく無意味なのではないでしょうか。


(3)良心と原理講論の教え

(ルカの10/25のサマリヤ人の話しなんか見ると)聖書の中のイエス様は、案外私たちの良心を信じて下さっている・・・
これは、統一教会の教義に反しませんか。『原理講論』によれば、「天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえない・・・。唯物論者はカイン型の人生観の結実であるので、人間的に見るといくら良心的で他人のために献身していても、彼らはサタンの側である。」(542ページ)となっているようですが。信仰者が神の意志よりも人間の良心に従うのはおかしいと思います。もし、「神の意志=良心」ならば、神への信仰は必要ありません。


(4)神体験

このHPに神が生きて働いているのを感じました・・・
すでに上記でも指摘したように、すべての神体験は、それが、単なる思い込みでないことを客観的に確認する方法示さねば、まったく無意味だと思います。あまりにも安易に「神を感じ」ていませんか。


(5)日本とキリスト教

佐倉さんは、日本人にキリスト教はあわないと思っておられるようですが、私は、1549年に日本にキリスト教が広がったとき、「東洋で最初のキリスト救国になるのは日本だ」と迄言われたのを聞き感動しました。
キリスト教が日本に根づかないのは、キリスト教の神の性質(権力のヒエラルキーの頂上にいる絶対的支配者)にあると思います。日本人は独善主義・排他主義が嫌いです。日本にはながい「和の思想」の伝統があるからです。

「和」(倭)とはもともと縄文時代の中央に広場を置く環状村落の「環」から来たものだとわたしは考えています。「環」の思想とは意図的にその中心に特権的支配者を置かないことによって秩序をまもる自治原理です。それは、中世史家の網野義彦の『無縁・公界・楽 -- 日本中世の自由と平和』で明らかにされている「無主・無縁」の原理に通じるものです。

それは、ユダヤ教・キリスト教のように、神に絶対的権力をあたえて上から秩序を守ろうとする政治原理、つまり支配思想とは、真っ向から反対する極にあります。統一教会は、その思想(親なる神)から見ても、その活動(組織的従順)から見ても、その目的(メシア王国)から見ても、典型的な中央集権主義のように見えます。すべてを一人の支配者のもとに統合しようとする、キリスト教のもっとも悪いところを引き継いでいるように思います。

自己の存在目的が他者から与えられることを期待する考えが、結局、絶対的支配者を自らの王として迎え入れ、自らはそれに従属することによって、人生の意義を見いだそうとする思想になってしまうのは、論理的必然といえるでしょう。