初めてお便りする者です。

私は,1年前にアメリカに来ました。キリスト教信者ではありませんでしたが,英会話の上達が主な目的で教会(長老派)に通い始めました。

そこでいろいろお説教を聞いたのですが,正直な話全く分かりませんでした。私の持った疑問はその教会の人達に質すのが本筋であり,佐倉さんにしてみれば全く知らない人の言っていることの意味を聞かれても責任は持てないということになるとは思いますが,彼らに聞いても「この東洋人はかわいそうに英語がよく分かっていないのだな」と思われて同じことを説明されることは目に見えています。私の疑問に対して,正統派はどのような説明をしているのかを教えていただければ幸いです。

お説教のテーマは,次の3つに集約されていたと思います。

1 人は罪深い→悔い改めよ→神は深い愛で赦して下さる
2 神は人の罪を救うためにイエスを地上に遣わされた→イエスは十字架に架かることによって全ての人の罪を引き受けられた→神またはイエスに感謝せよ
3 イエスの復活,奇跡行為
上記の3は聖書にそう書いてあるというだけの話で,信じるか信じないかの話なのでどうでもいいのですが,1と2は一応理屈の形を取っています。この理屈がどうもよく分かりません。

まず,「罪」とは一体何でしょうか。

他のサイトを見ますと「罪」とは神との契約を破ることというような説明がなされていました。アダムは神との契約を破ったのであり,人は皆アダムの子孫なのであるから人は罪を背負っているということらしいです。この説明は,なぜ私はアダムの子孫なのか,という新たな疑問が生じ余計に訳が分からなくなります。

私の聞いたお説教の中では,私たちの心の中は邪悪なものが潜んでいるというような例を挙げて罪を説明していました。確かに,私は他人を疑ったり,蔑んだりすることがありますし,そのことにより実際に他人を傷つけることもあります。それは良いことではなく反省すべきことではあると思います。しかし,赦しを請うべきはその他人に対してであって神ではないと思います。むしろ神に向かって赦しを請うて赦しを得たような気分になっているのは無責任としか思えません。

一番よく分からないのは,2で全ての人の罪が引き受けられたと説明されたいるのに,2000年後の現在でも罪が残っているのはどういうことなのでしょう。

次に,悔い改めるとはどういうことでしょう。

そもそも悔い改める対象である「罪」の観念がよく分からないので悔い改めの方法が分かりません。単なる反省なら神なしでもできますから他のことなのでしょうか。とにかく神を信じて受け入れろということなのでしょうか。それだと別にわざわざ「罪」という前提を置かなくてもいいと思います。

そして,「赦し」とは何でしょう。神の国(死んでからの世界なのか,この世に突然現れるキリスト独裁の世界かよく分かりませんが)への入場を許されると言うことなのでしょうか。ここで,神の国へ入る資格があるかどうかは神が審判によって決定するのでしょうが,ここで悔い改めない者は地獄に落とす神が無条件,無限の愛を持った神と調和するのかどうか分かりません。また,悔い改めた者が神に選ばれるのなら,初めから,「悔い改めないと神に選ばれませんよ→だから悔い改めなさい」と説明した方がまだわかりやすいです(それでも,私は,1%しかいない日本人のキリスト教信者とともに神の国へ行くより,99%の日本人とともに地獄に行った方がいいですが)。それなのになぜややこしい理屈を付けるのでしょうか。

私は,聖書を通読したこともないので上記の疑問には多くの誤解が含まれているとは思いますが,そういうことも含めてご教示いただけると幸いです。

99年4月28日



(1)罪とは

「罪」とは一体何でしょうか。他のサイトを見ますと「罪」とは神との契約を破ることというような説明がなされていました。・・・私の聞いたお説教の中では,私たちの心の中は邪悪なものが潜んでいるというような例を挙げて罪を説明していました。・・・しかし,赦しを請うべきはその他人に対してであって神ではないと思います。
なぜ人に対する罪が神に対する罪になるのか。これはユダヤ教あるいはその異端であるキリスト教の本質に迫る重要な問題点だと思います。このような疑問は西洋人にはもちろん、長くキリスト教のなかにどっぷりと使ってしまった日本人クリスチャンの心にも、おそらくもう問われることのない貴重な疑問だと思います。

結局この問題は、ユダヤ教やキリスト教にとって神とはなにかという問題に尽きると思います。一言で言えば、ユダヤ教やキリスト教にとって神とは絶対王だから、です。社会の秩序を維持しているのは絶対王ですから、秩序を乱す「悪なる行為」は同時に絶対王に対する「反逆行為」でもあるために、人に対する罪が王たる神に対する罪になるわけです。

わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。(マラキ書 1:14)

わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。(マラキ書 3:22)

あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。みよ、その日が来る。炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行なう者はすべてわらのようになり[燃え尽くされる]。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。(マラキ書 3:18-20)

聖書における「契約」とは、神の与えた律法を順守すれば神の祝福が、その律法を守らなければ呪いと罰が、人々に与えられることを指しますが、「契約」と言っても、絶対王たる神が一方的に人間に押し付けたものです。


(2)原罪とは

アダムは神との契約を破ったのであり,人は皆アダムの子孫なのであるから人は罪を背負っているということらしいです。・・・
創世記には有名な失楽園の物語があります。人類の始祖(アダム)とその妻(エバ)ヤーヴェ神の掟をやぶって、「神が食べてはならぬ、食べるとその日のうちに死ぬ」と言っていた「園の中央に植えられた木」のうちの一つ(善悪の知識の木)からその実を食べて、神々と同じように善悪を知るようになったので、ヤーヴェ神は、かれらがもう一つの木(命の木)からも取って食べて、神々と同じように永遠に生きるものとなるかもしれないと恐れ、ヤーヴェ神はかれらを園から追い出します。

キリスト教はこの物語をつぎのように解釈します。人類の始祖は神に反逆して罪人となった(原罪)ので、その子孫は、あたかも罪が遺伝するかのごとく、すべて罪人として生まれてくるようになった。また、罪の結果は死なので、人類の始祖およびその子孫は死ぬものとなった。また、神に反逆した罪の結果として、神と人間との間に断絶ができた。云々。いろいろな表現で原罪の思想が語られますが、要するに、キリスト教は、人類の始祖の罪の結果として、人類はすべて罪を犯さざるを得ないような存在として生まれてくる、ということが言いたいわけです。そうすることによってキリストを受け入れることの必要性や意味が生まれてくるからです。

本来の聖書(ユダヤ教典・旧約聖書)そのものには、もちろん、そのような原罪思想はありません。原罪思想は創世記の物語の特殊な解釈として生まれたあたらしい思想(「世々にわたって隠されてきた、秘められた計画を啓示するもの」ローマ人への手紙16:25)です。この失楽園物語を原罪思想として解釈しなければならない論理的必要性は、教祖の死という一大事件に直面したイエスの信者達の中から生まれました。かれらは、「自分たちの教祖の死は、敗北ではなく、罪をあがなう犠牲の死であった」という解釈をすることによって、教祖の死という最大の危機を乗り越えたわけです。もともとユダヤ教は罪を許してもらうために羊や牛を捧げ物として神に捧げる宗教なのですが、イエスの弟子達はそれを彼らの教祖の死に当てはめたわけです。(「十字架のあがないと日本人」参照)

イエスの死後、かれの追随者の中から、教祖の死を人類の罪をあがなう犠牲の死として解釈しはじめたグループのことを、現代聖書学では「キリスト・カルト」などと呼んで、イエスの教えを宗教的実践の理想としていた初期の「イエス運動」と区別しています。キリスト・カルトにとって大切なのはイエスの教えやその実践ではありません。彼らにとって大切なのは、キリストが死んで復活したという事件、そして、その死と復活によって人類に救いがもたらされたと信じる信仰です。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる・・・(ローマ人への手紙10:9)
ここにキリスト教の神髄があると言えます。すなわち、人は善きおこないによって救われるのではなく、むしろ、善きおこないはこのキリストの死と復活への信仰による救いから生まれるものである、ということです。

なぜ、人は善きおこないによっては救われないのでしょうか。それは、人は善きおこないをすることができない存在(罪人)だからです。では、なぜキリストの死と復活を信ずれば人は救われるのでしょうか。それは、まず第一に、イエスはアダムの失敗をやり直したからであり、第二に、人は信仰によって義と認められるからです。イエスがアダムの失敗をやり直したとというのは、イエスが自らを犠牲としてアダムの罪の償いをしたということですが、アダムは神の意志に反逆したがイエスは神に従順であった(死にたくないのに神の意志にしたがって死を受け入れた)というようなことも含まれます。信仰によって義と認められるとは、要するに、人は善きおこないをすることができない存在(罪人)ですから、人は神の恩寵によってのみ救われる(したがって、ひとはそれを受け入れるだけ)ことを意味しています。

このような、教祖の死を「救いの業」として解釈するキリスト・カルトの思想的営みの中から、人間はアダムの犯した罪のおかげで、罪を犯さざるを得ないような存在(罪人)として生まれてくるのだ、という原罪思想がかたちづくられていったと考えられます。つまり、アダムによって人類は罪人となり、キリストの死によってあがなわれると解釈することによって、かれらの教祖の死が、犬死にではなく、大変有意義な死となったわけです。


(3)悔い改めとは

次に,悔い改めるとはどういうことでしょう。そもそも悔い改める対象である「罪」の観念がよく分からないので悔い改めの方法が分かりません。単なる反省なら神なしでもできますから他のことなのでしょうか。とにかく神を信じて受け入れろということなのでしょうか。それだと別にわざわざ「罪」という前提を置かなくてもいいと思います。
すでに指摘しましたように、聖書においては、秩序を乱す「悪なる行為」としての罪は、同時に社会の秩序を支える絶対王に対する「反逆行為」としての罪でもあるために、悔い改めは、単なる自己の行為に対する反省だけではなく、絶対王(神)に対する従順を表明するというところにいかねばなりません。絶対王(神)への従順こそが聖書における信仰だからです。悔い改めとは、反逆者から従順者へと回れ右することだと言えるでしょう。キリスト教(新約聖書)においては、神とキリストへの従順は現実世界における権力者への従順とさえなっています。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、いまある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。(ローマ人への手紙13:1-2)

主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行なう者を処罰し、善を行なう者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。(ペトロの第一の手紙2:13-14)

さらにまた、キリスト教に関して言えば、悔い改めとは、自分が罪を犯さざるを得ない存在(罪人)であることを自覚すること、そして、そのことによって、自己の救いを神の恩寵にゆだねる信仰に至ることを意味することになると思います。つまり、悔い改めとは、キリスト教的に言えば、自分の力を信じる倫理的道徳的努力をする者から、神の恩寵を信じる(神への従順)者へと、回れ右することだと言えるでしょう。


簡単ですが、以上のごときが、「罪」「原罪」「悔い改め」に関するわたしの理解です。