はじまして。wedページを拝見いたしました。

わたしは、「橘 智」と申します。普通の自営業(損害保険代理店)を営んでおります。当然、と申しますか、貴兄のページに興味を持ったものでありますが、たぶんにもれずキリスト者(クリスチャン)であります。

なぜ、貴兄にメールを出そうと思ったのか自分にも良くわかりません。しかし、たしかに貴兄に対して、一種の興味を持ったからであることには間違いないと思います。

失礼を承知で、少し長いメールを書かせていただきます。

「死海文書」または「キリスト教」なるもの。私は両親がクリスチャンであったために、幼いころからキリスト教には事欠かない環境で育てられました。そこで教育されたことは、貴兄がその間違いを指摘される、いわゆる保守的なキリスト教的な宗教教育および道徳教育であったことは言うまでもありません。子供であった私は、なんのためらいもなくそれを受け取り、また受け入れてきました。しかし、大人になるにつれてそのすべてに何らかの矛盾を感じ、またその解決を聖書の中に求め、教会に対して回答を迫りました。

貴兄が「聖霊は働くか」との問い(もしくはその答え)を語っておりますが、おっしゃる通り、いわゆる霊の語りかけがあったということもなく、私の疑問は聖書の様々な情報に埋もれかき消されていました。

そこで生じた私の聖書もしくはキリスト教への答えは、「聖書に書かれたことは事実ではないかもしれない。」「キリスト教は、信じてはいけないかもしれない。」ということでした。

答えと言いながら、「・・・・かもしれない。」という言い方をいたことに理由があります。簡単です。私には知識がないからです。聖書を、それが事実なのか、ほんとうに神の言葉なのか、それを解く知識がないからです。いや、必要がなくなったと言ったほうが良いと思います。

わたしは自己紹介しました時、「キリスト者です。」と申しました。クリスチャンといっても良かったのですが、わたしはやはりキリスト者であると申し上げたいのです。

私は、世界で一番、聖書学に権威のある学者(またはその類の方々)が「いままで世界のクリスチャンが、世界のキリスト教が聖典と信じていた聖書は、すべて事実無根の物語でした。」と発表されても、世界中の教会、牧師、神父またはそのたぐいの方々が、「キリスト教は、決して神の宗教ではなかった」と熱弁されても、わたしは、「ごめんなさい。それでもイエスは私の主です。」と答えてしまうと思います。

なぜなんでしょう。

先ほど、大人になるにつれ、聖書やキリスト教に疑問を持ち、その解決を求めたが、知識としての解決はなかったと申し上げました。そう、聖書が事実であること、イエスが神の子であり、復活し、聖霊を下さり、いまも信じるものに平安(安心)と永遠の命の希望を与えてくださることを証明することは、今も出来ません。しかし、それを信じています。

おかしな矛盾です。

自分の中で、聖書は事実ではないかもしれない、キリスト教は真理でないかもしれない、と思っていながら、でもイエスを主と信じているのです。

わたしは、聖書は「誰でも聖霊によらなければ『イエスは主である』と告白することは出来ない」と書いていますが、そのことが良くわかります。

知恵と知識、いわゆる人間的な意識として聖書やキリスト教を信じることは出来ないが、霊が「イエスは主である」と告白してしまう、これが信仰なんだと思います。

現在、わたしは敬虔なクリスチャンではないと思います。聖書は週一回、毎日曜日の礼拝の時に開きます。食事の時、気が向いたときに感謝の祈りをささげます。歌うのが好きですから、カラオケに行かないときは、讃美歌を歌うことがあります。お金も好きですし、人を馬鹿にするのも大好きです。自分が一番正しいと思っています。男ですから、女性も好きです。

しかし、わたしはキリスト者です。

私にも、なぜそうなのかきちんと説明することが出来ません。

ただ、このように思います。「十字架の言葉は(福音は)、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力。」「福音は、・・・・信じるすべての人々にとって救いを得させる神の力。」なんです。

宗教的な、教義・儀式・伝統・伝承や、その他「イエスは主である」ことに不必要な一切のものは、信じるものにとっては愚かなものであるのです。そんなものが重要になると、知識によってその支えを必要としなければならず、学問としての地位を築かねばならず、また、組織や経済を運営していかなければならず、結局、利権が絡んで信仰とは程遠い、戦争をしなければならなくなる。

聖書が神の言葉であるかどうかは、信じるものにとって神の言葉であるかどうかであって、信じられないものにとって神の言葉でも何でもないんです。

貴兄にとって、聖書が何であるかわたしには理解が出来ませんでしたが、間違いなく、神の言葉ではなかったようです。それは、神が信じられないからでしょう。残念です。聖書にさえ出会っていなければ、貴兄は神を信じ、そして聖書を受け入れることが出来たでしょう。

死海文書やその他の学説、私も知らないわけではありません。こうして貴兄のWebページを見たくなるほどですから。でも、イエスが復活していようが、処女降誕をしていなかろうが、神の子でなかろうが、奇跡は起こしていなかろうが、それがたとえ事実ではなくても、私には対して意味がありません。「はじめに聖書ありき」ではありませんし、はじめに「キリスト教ありき」でもないからです。

「はじめに言ありき」と聖書がなくても信じられるのか。

ここが大切なんです。

信仰に、知識は一切必要ありません。なぜならば、救いの道は「全ての人」に開かれているからです。老若男女、赤ん坊からボケた老人まで、全ての人に開かれています。

それは、聖霊が働いて「イエスは主である。」と告白せしめるからです。

「聖霊」--- このことが、教会で、キリスト教で、どれだけ語られなくなったでしょう。信徒と呼ばれるどれだけの人が、それを信じているでしょう。

「聖霊」--- この言葉を聞いて、「いやし」「奇跡」「不思議な力」といった連想から、不気味なものと言った印象があります。そんなものではありません。信じられなかったものが、信じられるはずもないものが「イエスは主である」と告白させる力であります。

キリスト教の「信仰告白」と言われるものに「使徒信条」というものがありますが、ご存知の通り、第一節目に「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」とあり、これはまさに旧約聖書的な神であり、また第2節に「われはそのひとり子、主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、乙女マリヤより生まれ、ポンテオピラトのものとに十字架につかられ死にて葬られ、黄泉にくだり、三日目のうちによみがえり、天にのぼり、神の右に座したまえり。」として、いかにも貴兄が中傷したくなるような、ないようとなっています。そして第三節に「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」として、決して意識的には信じ得ないことばかりを、「信じます!」と告白しています。わたしは、現在の教会が、知識と情報にもて遊ばれ、一節・二節にばかりとらわれるあまり、今生きる私たち生身の人間に一番必要な、第三節以降を語らない、語れない、語ることが出来ない・・・・、その様なことのために、力を失ってきている、そんな気がしています。

神を信じて→イエスを信じて→聖霊を信じるとか、教会を信じて→聖書を信じて→神を信じて→聖霊を信じるとか、そんな順番があるわけないじゃないですか。

聖霊によって「神を信じ、イエスを信じ、聖霊を信じ、聖書を信じ、教会を信じる」のでなければ、最近すっかり力をなくし、人を救うことも出来ず、キリスト教国とは名ばかりで、戦争は平気(兵器)でするは、教会がそれに賛同するは、宗教的な強迫力を持って人をだますは、そんなキリスト教になってしまうんです。

すみません、本当に長くなってしまいました。 なんで貴兄にこんな事を語りたくなったのか、それはいまでもよくわかりません。挑戦したわけでもなく、また自分の信じていることに自信がなくなってきたから、貴兄の意見を聞きたいわけでもありません。迷惑な話しだとは思いますが、それを承知の上での仕業です。

失礼いたしました。

貴兄の研究が身を結びますよう、願っております。

では、ここで失礼いたします。

橘 智

satoshi@fujikasai-jp.com

99年4月19日



(1)真のクリスチャン・偽のクリスチャン

「聖霊」--- このことが、教会で、キリスト教で、どれだけ語られなくなったでしょう。信徒と呼ばれるどれだけの人が、それを信じているでしょう。・・・聖霊によって「神を信じ、イエスを信じ、聖霊を信じ、聖書を信じ、教会を信じる」のでなければ、最近すっかり力をなくし、人を救うことも出来ず、キリスト教国とは名ばかりで、戦争は平気(兵器)でするは、教会がそれに賛同するは、宗教的な強迫力を持って人をだますは、そんなキリスト教になってしまうんです。
もうずいぶん昔になりますが、わたしがかつてメリーランド州に住んでいたころ、近所の熱心なクリスチャンのおはからいで、その方の所属している教会(Church of Christ)の牧師さんに来ていただいて、いろいろ聖書やキリスト教について教えていただいたことがあります。その牧師さんはとくに「イエスを救い主として受け入れる」ことの大切さを強調されました。そして、「イエスを救い主として受け入れる者だけが救われる。そうでない人は永遠の地獄に行く」 -- ということでした。

それでは神は不公平(アンフェア)ではないか、とわたしは質問をしました。わたしは日本の山の中の田舎からやってきたけれど、わたしの故郷の村には教会もないし、クリスチャンもいないし、聖書もない。一生そのようなものに出会うことなく死んでいく人々がほとんどです。合衆国では、どの町にも教会の一つや二つはあるし、クリスチャンはまわりに沢山いるし、イエスについて聞く機会は圧倒的に多い。それなのに、イエスを救い主として受け入れるか否かだけで、天国に行くか永遠の地獄に行くかを決めるのは、神として不公平ではないか?(わたしは当時、「神の愛」と「永遠の地獄」とは相いれないものであるとして、「永遠の地獄」を否定していたのです。)

その牧師さんは、わたしの質問に答える中で、合衆国にクリスチャンが沢山いるというけれど、「本当のクリスチャン」はほんのわずかである、というようなお話をされました。わたしは、他のことはほとんどすべてわすれましたが、このことだけは強い印象を受けたのでしょう、いまでもよく覚えています。

それ以来、わたしは、おなじような意見を持っておられるクリスチャンに数多く出会いました。「クリスチャンとは名ばかりで、真のクリスチャンは少ない」という意見は、クリスチャンの中では例外的な意見ではないことを知りました。しかし、「自分は偽クリスチャンかもしれない」という意見のクリスチャンに出会ったことはありません。わたしの知るかぎり、クリスチャンはみんな自分の信仰は「神(聖霊)の導きによって」得た -- 自分は真のクリスチャンである -- と信じているようです。信仰は聖霊によって与えられるものであるとすると、自分の信仰が間違っているかもしれないと疑うことは聖霊そのものを疑うことになりますから、当然かもしれません。


(2)なにが信仰を持たせるのか

わたしはキリスト者です。私にも、なぜそうなのかきちんと説明することが出来ません・・・。聖霊が働いて「イエスは主である。」と告白せしめる・・・。信じられなかったものが、信じられるはずもないものが「イエスは主である」と告白させる力であります。
なにが、人をしてキリスト教の信仰を持たせるのでしょうか。もしかしたら、おっしゃるとおり、「聖霊が働いて」そうなるのかもしれません。しかし、別の可能性もあります。

統計によれば、両親がクリスチャン(ユダヤ教徒、イスラム教徒、等々)である場合に、その子供がクリスチャン(ユダヤ教徒、イスラム教徒、等々)になる確率は、非常に高いことが知られています。また逆に、子供が、親の信仰とは別の信仰を持つようになる(クリスチャンの親をもつ子供が、ユダヤ教徒やイスラム教徒になる、あるいは、ユダヤ教の親をもつ子供が、キリスト教徒やイスラム教徒になる、あるいは、イスラム教の親をもつ子供が、キリスト教徒やユダヤ教徒になる)確率は、きわめて低いことが知られています。両親に加えて、教師や友達の影響などをいれると、おそらく、この確率は100%近くになるでしょう。

統計の結果は明らかです。まわりの人間がその人に信仰を植え付けるのです。これは常識的に考えても当たり前の話で、別に驚くべきことでもありません。しかし、もし、「聖霊が働いて」信仰が与えられるものだとすると、この統計は不思議な結果と言わねばなりません。なぜ、キリスト教の聖霊は、イスラム教やユダヤ教の両親を持つ子供にはあまりよく働かないのでしょうか。


(3)信仰だけでよいか

信仰に、知識は一切必要ありません。・・・信じられなかったものが、信じられるはずもないものが「イエスは主である」と告白させる力であります。
「信じられるはずもないもの」が、今でも、オウムの信者をして、麻原彰晃を「最終的解脱者」と告白させています。信じることのできない事柄を信じる(犯罪を善と信じる)信仰の力によって殺人が正当化されたのです。
人を助ける医師であった私が、なぜ無差別殺人を肯定したのか、その人殺しを肯定した私の深層心理というのは、どのようなものだったのか、について説明します。・・・・

麻原の説いたタントラ・ヴァジラヤーナの実践は、一般社会では犯罪に相当する行為をも救済の手段として肯定していました。麻原は「たとえ罪を犯して行為は汚れようが、それをおこなう際に、心では『真の愛』を念じているので、こころは成熟が早くなる。解脱とは心の成熟のことである。ハルマゲドンが起きるということで『死』に直面せざるを得ないいまは、はやく修業を進め、心の成熟をもたらし、救済に役立つヴァジラヤーナの実践をするしかないのだ」と言っていました。・・・

人のため、世のため、知恵をもたらしてくれる最終解脱者の教えを守るために、私には「断る」ということは、「ありえない」ことでした。やらなければ、[人々に救いをもたらす使命を持った]オウムがつぶされると麻原がいっているのですから、麻原の宗教性を信じ切っていた当時の私には、私の大切な仏教を体現しているオウムが、つまり「仏・法・僧」の三宝の存続がかかっている、ということだったのです。・・・

一言で言えば、「私は麻原を信じていました」ということだったのです。

(林郁夫、『オウムと私』、文芸春秋社、396〜399頁)

信仰だけでよいのでしょうか。「Xは最終的解脱者である」、「Xは主である」、などと自らを信じさせているものを、「説明できないが、それは聖霊の導きである」などと、そんなに簡単に正当化してよいのでしょうか。