丁寧なご返事を、ありがとうございます。

佐倉さんのは御自身の御返答のスタンスを、一定に保たれておられるのですね。例えば・・・

神の存在はわたしの認識の届く領域を越え出ています。したがって、万物についてではなく、万物の背後にあると想定されているものについての質問には、答えることはできません。
の如くの表現が、他の方々への御返答にも観受けられそれらが全て、神様の存在に関わる言及であるからです。(或いは五感的に認識不能な事物)

しかし、私は、神様の存在を、客観的推論で見た上で、御質問を致したつもりでした。確かに、存在するかどうかも解らない神様を、質問の叩き台にされても、答えようが有りません。

只、佐倉さんのおっしゃる、

人工物にはそれに手を加えた人の意図があったことはわかりますが、自然物(石ころや人間)に関しては、その背後にそれを形作った意図をもった人格があったかどうかはまったく明らかではありません。
については、現代の宇宙物理学や、自然科学の分野で行われる、推論により、断片的ながら、考察する事は出来るはずです。

ビッグバン理論も、宇宙が膨張している事を前提に、その発端まで溯るとこの位置で、点に成ると言うところを割り出し、その点が大爆発を起こし(何故大爆発したかは、不明)、拡大し今の宇宙に成ったと、推測されている訳で・・・。

マクロ進化論にしても、数多くの自然淘汰(生命体以前の蛋白質も含めて)と、突然変異(現在確認されない優勢遺伝の・・)、そして気の遠くなるほどの年月により、最終的に人類は誕生したという、推測、推論なのです。

佐倉さんなら、きっと科学は現象の根拠を検証出来ると、お答えになられるでしょうが、結局、最終的には、「こうであるとしか考えられない」という、客観的推論が、結論を支えている場合が、この分野には大いに観受けられます。(勿論実験と結果のみで結論づけられている科学もたくさん有ります。)

であるなら、万物の調和性や、合理性を、前提に、その発端まで溯った、有意志創造論を推測出来るのではないでしょうか。宇宙バランスや、生態系、生物全般に見られる生体メカニズムの緻密度等々、 人工物に意図が感じられるよりも更に、繊細な精度を有するものに対しての考察が、「こうであるとしか考えられない」という、客観的推論を導き創造者とその意図を、より実存へと誘うのです。

勿論それを、聖書の中におられる神様に直結させる事に異論はあるでしょうし、更に検証は、必要ですが。ですが、もしそうであると推測される可能性があれば、どちらの理論に建つかが、スタンスの分岐点になるわけです。

それであれば、科学者が、到底たどり着けない宇宙の果てに思いを巡らせるように、私も存在の背後に創造者がいるかいないかというような、事実に関する問いに対して、創造者の創造目的に思いを巡らせ、 「存在意義」 についても、考えてしまうのです。

佐倉さんの、死後の世界への考えも、唯物論的には、意義があります。神など居なくても、空しくはない、次世代に対する奉仕の姿だけでも、或いは、人格を正しく保てるでしょう。

マクロ進化論は、それまで、人類の上に創造者を意識させていた人類に、革命的開放感を与える理論でした、科学の発展は、タイムとラベルを夢見させました。しかし現代科学は、可能と不可能を分別し、マクロ進化論も、これ以上因果関係を、検証できないところまで来てしまいました。だからこそ、どちらの立場に建つかは、個人の意志であると思います。私は、創造者の意志への探求心により、その意義をも、見つけたいと、思うのです。空しい空しくないは、その後に在るのです。

私の質問が、的を得ていなくて佐倉さんの素よりのスタンスに合いませんでしたね。けれど、この事についてもご理解いただきたいと思いましたので、再度お便り致しました。

永遠の命の思想に対するコメントも順次お願いします。旧約聖書には、善悪を知る木の実を食べると死ぬ、と書かれ、それ以前は、死なないと読み取れる、文章になっています。キリスト教が、初めの人アダムが、原罪に支配される以前の状態に、人と神とを和解させる福音であるなら、永遠の命思想は寧ろユダヤ教の原点を継承しており、佐倉さんのいわれている、逸脱した思想とは、言えなくなるからです。

ご自愛下さい、でわ再度の機会に。

wejloveより。

99年4月4日



神の存在は自然科学的方法で証明できる?


(1)ふたつの「なぜ」

私の質問が、的を得ていなくて佐倉さんの素よりのスタンスに合いませんでしたね・・・

「人や万物には存在目的があるか」というのが、わたしに向けられた前回のご質問でした。以下がご質問の全文です。

私は、聖書に記されたごとく神様がおられ、万物を、目的を持って創造したと信じております。人間には、本能的に理性と愛を与えられ、その使い道も与えられていると、考えておりますが、佐倉さんは、万物は何の目的も無く偶然の産物だとお考えなのでしょうか。 もしそうなら、人類の或いは万物の存在意義は何処にあるのでしょうか、理性や愛さえ、空しいものの様な気が致します。
ここで問われているのは、「われわれ人間はなぜ存在しているのか」「世界はなぜ存在しているか」ということです。このような種類の質問における「なぜ」の意味は、たとえば、「なぜリンゴは地上に落ちるのか」というような、科学が自然現象を説明するときにつかう「なぜ」とは、まったく異なった意味の「なぜ」です。科学が問う「なぜ」は、厳密に言えば「どのようにして」という意味の「なぜ」ですが、「人間や万物はなぜ存在しているのか」というような質問で問われているものは、存在の目的を問う「なぜ」です。ところが、存在目的を問う質問は、すでに、その質問自体が人格的存在を暗黙のうちに前提にしています。なぜなら、動機と意志を持つものだけが目的を生み出すからです。

創造者としての人格的存在を前提にしなければ無意味なこの種の質問は、相手が信者でないことを知っているにもかかわらず、万物そのものに関する質問であるかのような体裁で、しばしば、非信者に向けられて問いかけられます。おそらく、おおくの現代の信者自身も自問自答して、ついつい、自己満足してしまう種類の質問だろうと思います。「神がいなければ、なぜ世界は存在するのか」、「そもそも、世界はなぜ無ではないのか」、等々。わたしもかつて信者であるとき、そうして自分の神信仰を正当化していたものです。質問自体がすでに偏見を内包している(動機と意志を持つ人格的存在者を想定している)ことにわたしは気づいていなかったのです。


(2)神の存在は自然科学的方法で証明できる?

[神の存在は]現代の宇宙物理学や、自然科学の分野で行われる、推論により、断片的ながら、考察する事は出来るはずです。・・・万物の調和性や、合理性を、前提に、その発端まで溯った、有意志創造論を推測出来るのではないでしょうか。宇宙バランスや、生態系、生物全般に見られる生体メカニズムの緻密度等々、 人工物に意図が感じられるよりも更に、繊細な精度を有するものに対しての考察が、「こうであるとしか考えられない」という、客観的推論を導き創造者とその意図を、より実存へと誘うのです。
「断片的ながら・・・」とか「より実存へと誘う・・・」という、はなはだあいまいな表現が正直に物語っているように、「繊細な精度を有するものに対しての考察」することなどによって、神の存在を証明することはできません。なぜでしょうか。それを次に考察してみます。


(ア)調和性や合理性は無条件に前提にできない

万物の調和性や、合理性を、前提に・・・
調和や合理性は自然や人間世界に関する部分的事実に過ぎず、混沌と非合理性も、自然や人間世界には見られます。また、たとえ、わたしたちの見るすべてが調和と合理性に満ちている、と仮定したとしても、わたしたちの知識はきわめて限られており、自然や人間世界に関する全知識を持っているわけではないのですから、自然や人間世界がすべて調和と合理性に満ちている、などと前提にすることはできません
目の特徴のなかには、どうでもよいだけでなく、明らかに機能的によくないものもある。網膜の桿状体から出る神経線維は、脳の内側に向けてではなく、眼房や光源に向かって外側にのびている。神経線維は目の奥で一束の視神経となり、網膜にあいた穴を通って外へでなければならない。光は神経線維や神経節や、それらを養っている血管などを通過しなければならないため、さえぎる層がごく薄いにもかかわらず、光の一部は失われてしまう。視神経が穴から出ていく場所は、盲点となる。網膜はその下の強膜にゆるくしか接合していないため、網膜剥離という深刻な医学上の問題が起きやすい。神経線維が強膜を通り抜けて、眼球のうしろで視神経を形成していれば、このような問題は起こらないだろう。そういう機能的に行き届いた構造の眼は、実際にイルカなどの軟体動物に見られるのだが、人間も含めたすべての脊椎動物の網膜は、機能的には馬鹿げたことに逆の配置になっている。

(ジョージ・ウイリアムス著、長谷川真理子訳、『生物はなぜ進化するのか』、草思社、23〜24頁)

すでに人間や宇宙の創造者としての神を信じている人は、そのことによってすでに神の創造した宇宙や人間世界は目的をもって造られたと考えていますから、そのまま、調和と合理性に満ちているはずだとおもっています。そのため、すでに創造者としての神を信じている人は、自然や人間世界を見るとき、その調和や合理性の側面だけを選択的に見る傾向にあります。

しかし、誕生し成長する生命と同じ数だけの衰退と死滅があり、生命はそれをサポートする肯定的なものだけでなく、生命を奪おうとするものによって絶えず危険の中にあります。ひとつの生命の存在はしばしば他の生命の否定の上に成立しています。病気や地震や台風は数多くの生命体の希望を無視して、毎年多くの命を奪います。

第一近似でいえば、今まで生存していたすべての生物はもう絶滅してしまっている。・・・現在、地上に生息していると考えられている1000万〜5000万種の生物はこれまで地球に生まれたすべての生物種の0・1%程度に過ぎないのである。進化の普通の道筋は一つの種がうまれ、しばらく生存し、それから絶滅してしまうというものである。科学者たちの評価によれば化石の記録によってわかっている期間を通して、生物種は年に数百種の割合で絶滅してきた。一つの個体が死ぬことを免れないのと同じように、一つの生物種が絶滅することもまたまぬがれないのである。

(ジェームス・トレフィル、美宅成樹訳、『科学1001の常識』、講談社)

地球という環境は、ほとんどすべて(99.9パーセント)の生物にとって、絶滅を強いられた過酷な環境ですが、わたしたちの知っている地球外の星のほとんどすべては、地球とはくらべものにならないほど、さらに住みにくい、生命と調和しない環境です。これでは、生命は、まるで、地球という狭い牢獄に閉じ込められた囚人のごとくです。

このように、「万物の調和性や、合理性を」無条件に前提にすることはできません。「万物の調和性や、合理性を、前提に」することができるのは、すでに人間や宇宙の創造者としての神を前提にしているために、自然や人間世界を見るとき、その調和や合理性の側面だけを選択的に見る偏見によってのみ可能です。


(イ)アナロジーは証明の道具ではなく説明の道具である

人工物に意図が感じられるよりも更に、繊細な精度を有するものに対しての考察が、・・・創造者とその意図を、より実存へと誘うのです。
このような論理は人間の創作のアナロジーからの証明といえるでしょう。しかし、人間と人工物の関係から神と宇宙との関係を論じることには、一つの致命的な欠陥があります。それは、アナロジーは証明にはならないという事実です。アナロジーは説明の手段であって証明の手段ではありません。たとえば、雪を見たことのない人に雪の白さを説明するのに砂糖の例を持ち出すようなもので、そのことによってできるのは、雪の白さを説明することだけであって、雪が白いことを証明することはできません。同様に、人間と人工物の関係の例を持ち出すことによってできるのは、想定された神と宇宙との関係を説明することだけであって、宇宙に創造主があることを証明することはできません。つまり、アナロジーによる「証明」は証明ではなく、すでに神があると信じている人が神のことをどのような存在として想定しているかを説明してくれる手助けにすぎません。

このアナロジーによる証明に関しては、たとえばヒュームなどによって、他の問題も指摘されています。もし、人間と人工物の関係から神と宇宙との関係を知ることができると仮定すると、たとえば、すべての人工物を作った人間は物質的肉体を持っているので、宇宙を作った神も物質的肉体を持っているに違いないという、クリスチャンにとっては受け入れがたい結論も出てきます。複雑な人工物は複数の制作者たちが協力して作るので、複雑な宇宙も複数の創造者が協力して造ったに違いないという、これまた、クリスチャンにとっては受け入れがたい結論も出てきます。さらに、人工物はすべてすでに存在しているものに手を加えるだけで、人間は創造者ではありませんから、神もすでに存在しているものに手を加えただけであり、創造者ではないという結論も出てきます。また、人工物には人間の不完全性による失敗作がみられ、また自然物や人間にも不完全性が見られるから、神も不完全であるという結論さえ出てきます。このように、人間と人工物の関係から神と宇宙との関係を知ることができると仮定すると、クリスチャンの信仰に都合のよい結論だけではなく、クリスチャンの信仰に都合の悪い結論もたくさん出てきます。これは、アナロジーが、ある前提からある結論を導出する証明の道具ではなく、あるものを例として他のものを説明しようと試みる説明の道具に過ぎないため起こる欠陥です。


(ウ)「人工物に意図が感じられる」のはなぜか

人工物に意図が感じられるよりも更に、繊細な精度を有するものに対しての考察が、・・・創造者とその意図を、より実存へと誘うのです。
「人工物に意図が感じられる」のは、「繊細な精度」ゆえではありません。素朴な石器には人為を読み取れますが、水晶やダイヤモンドの結晶のような、石器よりはるかに「繊細な精度」を持つ自然物に人為を感じることはできません。それは、人工物か自然物かを決めるものが、「繊細な精度」などではなく、自然の働き(物質の性質や物質の相互作用)によるものか、それとも、人間の手が加えられたかを区別することによるからです。つまり、わたしたちが、あるものを見て、それが人工物か自然物かの判断できるのは、その判断をする前に、わたしたちが、人間の創作活動と自然の働きの区別を知っているからです。

区別を知っていてはじめてわたしたちは区別の判断をすることができます。黒と白の区別を知っていなければ、あるものを見て、それが黒か白かの判断はできません。もし、わたしたちが、神の創作活動も神の働きによらない存在物も知らず、よって、神意によって創造あらしめられたものと神意によらないで存在するものとの区別を知らないとしたら、わたしたちは、ものを見て、それが神意によるか否かを判断することはできないでしょう。

このように、人格的存在をはじめに知っていなければできない判断(存在物に人格的存在の意図を認めること)を理由にして、人格的存在を証明できたと思い込んでいるので、この種の主張(伝統的に「デザイン論」と呼ばれる)は一種の循環論に陥っているといえるでしょう。これから証明すべきことが、証明の理由の前提として使用されているのです。


以上見たように、「繊細な精度を有するものに対しての考察」することなどによっては、神の存在を証明することはできないことがわかると思います。神の存在は「客観的推論」からたどり着いた結論ではなく、昔も今も、主観的な思い込みから想定されたものに過ぎません。


(3)科学と信仰の決定的な違い

ビッグバン理論も、宇宙が膨張している事を前提に、その発端まで溯るとこの位置で、点に成ると言うところを割り出し、その点が大爆発を起こし(何故大爆発したかは、不明)、拡大し今の宇宙に成ったと、推測されている訳で・・・。マクロ進化論にしても、数多くの自然淘汰(生命体以前の蛋白質も含めて)と、突然変異(現在確認されない優勢遺伝の・・)、そして気の遠くなるほどの年月により、最終的に人類は誕生したという、推測、推論なのです。
おっしゃる通り、科学は単なる観察や実験データの寄せ集めではなく、さまざまな、推測、推論を行います。しかし、科学と信仰の決定的な違いは次の点にあります。科学的推論は、たえず、あたらしく発見される観察や実験データによって、書き換えられ塗替えられる性質のものですが、信仰による信念は、観察や実験データとは無関係に成立しており、観察や実験データに反してまでも固持すべきことが讚えられる性質のものです。一方は知識であり他方はドグマ(教義)です。それは、そもそも、信仰の信念が、救いのための信念であって、観察や実験データから導きだされた推論ではないからです。それをまるで観察や実験データから導きだされた推論であるかのように装うのは、信仰における知が、真実を知るための努力ではなく、すでに固く信じていることがらを正当化するために雇われているからにすぎません。


(4)データの改竄

永遠の命の思想に対するコメントも順次お願いします。旧約聖書には、善悪を知る木の実を食べると死ぬ、と書かれ、それ以前は、死なないと読み取れる、文章になっています。キリスト教が、初めの人アダムが、原罪に支配される以前の状態に、人と神とを和解させる福音であるなら、永遠の命思想は寧ろユダヤ教の原点を継承しており、佐倉さんのいわれている、逸脱した思想とは、言えなくなるからです。
問題の部分の翻訳がクリスチャン学者によって改竄されているのです。たとえば、日本聖書協会の新共同訳聖書では、つぎのように翻訳されています。
主なる神は人に命じていわれた。「・・・善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

(創世記2章16〜17節)

ここで「食べると必ず死んでしまう」と訳されているところは、原文では「食べると、その日のうちに(ベヨム)死んでしまう」です。つまり、これを翻訳したクリスチャン学者は、おっしゃられているようなキリスト教のドグマに合わせるために、「その日のうちに(ベヨム)」という表現を脱落させ、ユダヤ教典(旧約聖書)を改竄してしまっているのです。原文のまま、「食べると、その日のうちに死んでしまう」では、原罪に支配される以前には「死は無かった」などという読みは出てこなくなるからです。

信仰のドグマに合わせるために、聖書翻訳過程でさまざまな改竄がなされている事実については、すでに、「聖書は書き換えられたか」や「ダビデ物語の矛盾と混乱(2)と新改訳聖書」 でも取り上げました。

データの改竄は科学者にとっては致命的な犯罪であり、そのようなことをした科学者は科学の社会から永久追放されます。彼の科学者としての生命はそこで終わります。科学の知識はデータの正確さに依存しているからです。しかし、信仰の社会では、信仰を守るためには、データ改竄さえ辞さない者に対しては、はなはだ寛容なようです。信仰者は、必然的に護教者となり、真理の探究者であることを止めるので、このようなことが、まるでたいした問題ではないかのごとく、ほおっておかれるのでしょう。