佐倉様こんにちは、
Awake,JW」のJudasです。ご無沙汰してました。

「来訪者の声」は見ないうちにすごい人数になってますね!様々な人の意見を聞けるのはとても興味深いです。

ある人が神にママレモンを啓示される話にはふきだしてしまいました(爆)。僕のエホバの証人時代にはよく「神との個人的な関係」「祈りが聞かれた」という話をいろいろ聞きましが、それも実はママレモンの思い込みと同じようなことなのでしょう。

佐倉さんの指摘の中で、僕にとって一番インパクトがあったのは、「ユダからの手紙」に偽典として退けられた「エノク」書からの引用が存在するということでした。聖書には外典というものが数多くあるということはエホバの証人の書籍研究で知りました。どのように今の66冊が「聖書」と決まったのかに関しては、「外典は寓話などを含んでおり明らかに霊感を受けていないという理由で退けられた」との説明を受けたのですが、「選別したのが霊感を受けていない後世の宗教指導者たちだとしたらどうやってその書が本物か偽物かを見分けられるのだろう?」という疑問が心をよぎったのを覚えています。寓話っぽい話は今の「正典」にもたくさんあるからです。今の「正典」に「偽典」からの引用があるとなると、現行の聖書66冊の完全無欠性を唱えるファンダメンタリズムにとっては致命的な問題だと思います。

ところで佐倉さんがかつてクリスチャンだったというのは知りませんでした。ではやはり、様々な理不尽さに心を悩ませたのでしょうね。

僕も全くそうで (エホバの証人はファンダメンタルの気が強いから特にです)明らかにおかしなことを自分に言い聞かせ、自分の心に嘘をついてまで信じなければならないその不自然さ、ただお金で雇われた弁護士のように黒いものも白と言わねばならない理不尽さ、自分が心から信じ切れないこと、同感できないことを他人に伝道しなければならない無責任さに嫌気がさし、信仰から離れました。

今は全く自由の身です。普通に聖書を読んでいれば矛盾は滝のように出てくるのに「内面的に完璧に調和していて矛盾ひとつない本」と言ったり、無実な幼子を火の中で皆殺しにする残忍な神を「神は愛です」などと言う必要はなくなりました。疑問を投げかけてくる人にまどろっこしい弁解をする必要もなくなりました。

長い間更新をしなかった僕のHPですが、最近また佐倉さんのHPに触発されて、思っていたことを新たな記事にまとめました。「聖書は本当に道徳的?」「神に操られた悪人たち」などなどです。よかったら読んでみてください。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/7256

今後も佐倉さんの論文を楽しみにしています。僕も佐倉さん同様、聖書をあらゆる道理から免除しえこひいきしその実質をはるかに越えて偶像視するおかしなファンダメンタリズムに警笛を鳴らすため(ちょっと大げさか?)、自分なりにクエスチョンマークを投げかけていきたいと思います。

Judas

99年3月28日


(1)神の啓示

ある人が神にママレモンを啓示される話にはふきだしてしまいました(爆)。僕のエホバの証人時代にはよく「神との個人的な関係」「祈りが聞かれた」という話をいろいろ聞きましが、それも実はママレモンの思い込みと同じようなことなのでしょう。
ある特定のできごとを「神の導き」と解釈したり、心に浮かぶある特定の考えを「神が自分に語る声」と解釈することは、クリスチャン信仰者に広く認められる事実だと思います。わたし自身も、信者であった当時の日記を読み返してみると、あちこちに、「今日、神が教えてくれたこと」というような形で、同じようなことをやっています。

本当に神の語った声なのか、それとも神が語ったと自分がそう思っただけなのか、わたしは、その区別をするものがどこにもないことを認めるに至りましたが、聖書に登場する預言者やイエスは、Uchida さんのママレモンのお話のように、自分の心に浮かぶことがらを、単純に、神が語る言葉であると思い込んだ人々のことだと思います。Uchida さんからのお便りは、人がいかに簡単に自分の心に浮かぶことがらを神の言葉である思い込むことができるかを明らかにする貴重な資料です。


(2)正典の中にある偽典

佐倉さんの指摘の中で、僕にとって一番インパクトがあったのは、「ユダからの手紙」に偽典として退けられた「エノク」書からの引用が存在するということでした。・・・今の「正典」に「偽典」からの引用があるとなると、現行の聖書66冊の完全無欠性を唱えるファンダメンタリズムにとっては致命的な問題だと思います。
「聖書66巻だけが神の言葉である」という主張が成立しないことを示しています。「聖書66巻だけが神の言葉である」という主張は「エノク書」などを「偽典」として排除することを意味しますが、神の言葉であるはずの聖書の1巻「ユダの手紙」そのものが、その偽典を神の言葉として引用しているからです。正典も偽典と同類の書(つまり人間が書いた書)であることを示しています。


(3)真理と救済

お金で雇われた弁護士のように黒いものも白と言わねばならない理不尽さ・・・
真実を知ることより自己の救済を先行させること -- つまり信仰 -- が、真理でないものを真理であると強弁する結果を生むことになるのだと思います。それは、わたし自身の体験でもありますが、本サイトに寄せられるたくさんのお便りを読めば本当にあまりにも明らかです。信仰は必ず人を「真理でないもの、真理かどうかわからないものを、真理であると強弁する者」にします。信仰とは知的良心を麻痺させることだと思います。


(4)更新

長い間更新をしなかった僕のHPですが、・・・よかったら読んでみてください。
楽しみにしています。これからも、がんばってください。