こんばんは。はじめてホームページを見せていただきました。

佐倉さんの豊富な知識には驚きました。僕はクリスチャンなので、正直言えば、一部納得の行かないところもありましたが、同感です。というところもあります。特に「オウム真理教云々」のくだりです。僕自身、教会の中にあるそういう傾向を否定しませんし、最も警戒すべきことだと思っています。実際、僕はこれに関連したことで、受洗した教会を除籍されています。それからしばらくは「信じることのこわさ」に悩みました。けれども、クリスチャンであることを止める事はできませんでした。

僕は別に佐倉さんにキリスト教(もしくは他の何か)を信じてもらいたいとは思いませんが、やはり「クリスチャンであった」ということには疑問を感じます。(この点のみ尾垣さんと同感です) 佐倉さんの文章は、一度信じていた人がそれを止めた文章というよりも、信じ切れなかった人の文章という印象を受けるからです。「信じる」の定義が佐倉さんのものは、一般にキリスト教会で言われているのとことなっているようなので、佐倉さんは「信じていた」と言われるかもしれませんが・・・。

「信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信することと佐倉さんは言われますが、「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」というのとは、ちょっと意味がちがってくるとおもいませんか?尾垣さんが「知識云々」にこだわっていたのはそこかな?と思います。佐倉さんの言う通り「信仰は思いこみ」で「自分が救われたいという欲求」を満たすものだと思います。上の聖書の言葉って単純に読めばそうじゃないですか?ただ、この「思いこみ」は、色々問題はあるにせよ聖書に基づくものであること、長い年月の間、多くの人が「思いこんできた」ということです。こんなこと佐倉さんにはなんの意味も持たないでしょうが・・・。

信仰というのは「賭け」だと思います。分からないけど、人生を賭けてそう思いこもうとする意志のことをいうのではないでしょうか?人生を賭けて思いこもうとしているわけですから、多少の矛盾などでは心が動かされないのもわかります(逆説的ですが)。尾垣さんのように攻撃的になるのもそのせいでしょう。ただ、その「賭け」を僕は悪いとは思いませんし、馬鹿げているとも思いません。自分も「賭け」にのってるわけですし。そして「賭け」をする理由は自分の救いのためでしょう。仰る通り。佐倉さんは「賭ける」ことができなかった。それで幸福ならいいんじゃないですか。で、もしいつか「賭け」たくなったら、どこかに「賭け」ればいいと思います。

ただ、キリスト教にもいろいろな考え方があります。アントニー・デ・メロ神父の著作(寓話集が言いと思います。「小鳥の歌」、「蛙の祈り」) を御一読されることをお勧めします。キリスト教から自由にされつつあるキリスト者を知ることができるでしょう。ただ、聖書的だとは言えませんが、キリスト教アレルギー(?)的な発言

(問)「キリスト教以外になにかもっと正しい宗教があるとお考えでしょうか?」

こういう質問は、いかにもクリスチャンらしい質問だと思います。自分たちだけが正しいと思っているからです。キリスト教の最も醜いところです。

は僕にとっても少し悲しかったので。

長々とすみません。要するに感想です。

では。さようなら。


(1)伝承と信仰

ただ、この「思いこみ」は、色々問題はあるにせよ聖書に基づくものであること、長い年月の間、多くの人が「思いこんできた」ということです・・・。
人が信仰を持つようになるのは、通常、そのようなものだと思います。両親や友人など、人が伝えたことを信じて人は信仰者になるだと思います。わたしたちも、わたしたちの先輩も、聖書を書いた人びとも、多くの人は、人の語ることを聞いて、信仰者になったのだと思います。 しかし、少数の人は神が自分に語ったと主張しました(これについては、とても貴重な「Uchidaさんのお便り」をごらんください)。聖書の中の預言者と呼ばれる人びとは、Uchidaさんのように、神が自分に語ったのだと思ったのでしょう。ひとは、まことに安易に、神の声を聞いたと主張するものです。


(2)賭けと信仰

信仰というのは「賭け」だと思います・・・
そうだと思います。知らないことを確信するとは、神が手に持つ壷の中のサイコロが、「チョウ」と出るか「ハン」と出るか、わからないけれど、「救い」という益を得るために、信仰者は人生を賭けるのだと思います。しかし賭けならばそれは本質的に不確かなものです。不確かなものであるという自覚(無知の自覚)があれば、不安があるはずだし、聖書の間違いの可能性も認めるはずです。それなのに、信仰を持つことによって心の平安を得たり、「聖書には間違いはありえない」などという聖書信仰を持ったりするのは、やはり、「知らないことを知っているかのごとく思い込む無理」(自己欺瞞)があるからでしょう。

わたしは、たとえ自分の益(救い)にはならない恐れはあっても、知らないことは「知らない」、疑わしいものは「疑わしい」、間違っていると思えるものは「間違っている」、と素直に認めることは良いことだと思います。