(これは「1月9日」の続きです)

佐倉さん、こんにちわ

内村の言葉の理解の参考にしてみてはと思い申したのですが佐倉さんには無用の長物を押し付けてしまい大変失礼しました。日本の信仰心は米国流のキリスト教(1915年8月)より、はるかにキリスト教的であると考えます。しかしアメリカのキリスト教信仰のすべてを否定するつもりはありません。世のため、人の命のために命を棄てるのがキリストの十字架の教えであり、自己中心の独裁者、指導者による人の命を屁とも思わない人達によって成り立っている国こそ非キリスト教国だと思います。

またキリスト信仰がないから、悪人だとは決して思いません。クエーカーの信仰者は言います。

クエーカーは内なる光を信じます。キリストの内在を信じます。人種、時代、民族、性別にかかわらず、すべての人の内に光、種子が神から与えられ植えられており、声が語りかけ、わがものならぬ力が授けられると信じます。この内なる光はあらゆる国民の伝統の中に輝いているのです。キリスト以前の、キリストを知らぬ人々の中にも、その声は語っているのです。ソクラテスにも、仏陀にも、老子にも、孔子にも、禅僧のうちにも、その種子は与えられているのです。
ところで無教会は教会から人々を解放する運動ではなく、教会が独占しようとしているキリストを教会の外の人に解放するものであると思いま す。「人が救われるかどうかは神が一方的に決めるもの」実にその通りでございます。神が人となりこの世に来られ、すべての人の為に死に、死の壁を打ち破り甦られたならば、すべての人は一度は死にますが救われるのであります。すべての人はイエスによって救われると神が一方的に決められたのであります。

山本孝寿


わたしこそ、つまらない質問をしてしまいました。わたしの知識の届き得ない領域、真実であるかどうか決定することのできないことがらについて、つい、質問をしてしまったために、せっかくお答えしていただいたのに、わたしはコメントすべき何ものも持ちあわせていません。

おたより、ありがとうございました。