こんにちは。プータンです。丁寧な回答をありがとうございました。

佐倉さん:

冷蔵庫にビールがあるかどうかは、冷蔵庫を開けてみればわかります。火星に生命があるかどうか、火星を調べてみれば分かります。それは知識となります。しかし、神が存在するとか、死後人間の魂は生残って天国や地獄にいくとか、そのようなことがらは、調べて分かることではありません。わたしたちの知覚が届かない領域の事柄だからです。信仰とは、そのような、わたしたちの知識の届かない領域に関する、信者の思い込みです。知識は検証できます。信仰は検証できません。火星に火星探査機が届くのは知識によります。そしてその知識の正しさは検証することができます。信者が天国に行くというのは信者の信仰によります。だれも検証できない、信者に都合の良い思い込みに過ぎません。
プータン:

その通りです。「だれも検証できない」ことを「信者に都合の良い思い込み」と思われるのは自由です。またそれを信じることも自由です。「だれも検証できない」ことですから。それじゃ佐倉さんの意見を「未信者に都合の良い思い込み」と思うのも認めていただけますね。(笑)

「存在の意味」についての回答ですが、ごめんなさい。イマイチよく説明がわかりませんでした。


(1)信仰と知識

それじゃ佐倉さんの意見を「未信者に都合の良い思い込み」と思うのも認めていただけますね・・・
誰の意見であれ、その意見が、知識によらず、信仰によるものならば、おっしゃる通り、「都合の良い思い込み」にすぎません。しかし、その意見が、信仰によらず、知識によるものならば、それは単なる思い込みではありません。わたしの
神が存在するとか、死後人間の魂は生残って天国や地獄にいくとか、・・・信仰とは、そのような、わたしたちの知識の届かない領域に関する、信者の思い込みです。
という意見は、プータンさんご自身も、信仰が検証できないことについて「その通りです」と認められているように、この意見は、信者自身が告白しているという客観的な事実によるものです。したがって、わたしの勝手な思い込みではありません。

「地球が丸い」という意見には、それを検証するための数多くの客観的な事実があります。「神が存在する」「イエスはキリストである」「イエスの血によって罪が許される」などという意見には、それを検証するための客観的な事実が皆無です。ゼロです。したがって、それらはただそれを信じたい個人の思い込み(すなわち信仰)によってのみ成立しているものです。


(2)存在の意味

「存在の意味」についての回答ですが、ごめんなさい。イマイチよく説明がわかりませんでした。・・・
わたしの「存在の意味」についての言明は、「自然科学は、ものがそこに存在していることを前提としています」というプータンさんのご主張に対する反論です。プータンさんのこのご主張は、「ものがそこに存在していることを前提」にして、はじめて、自然科学が成立する、というものです。それに対して、わたしは、「ものがそこに存在していることを前提」にするためには、まず、日常生活や自然科学の知覚体験が先に前提にされなければ不可能である、と逆のことを主張したのです。

「ものがそこに存在していることを前提」にするためには、「ものが存在している」とか「ものが存在していない」という言葉の意味がすでに成立していなければなりません。そうでなければ、そのようなことを前提にすることなどありえません。

言葉に意味がなければ、単なる雑音であり、紙の上にシミにすぎません。それでは、一体なにが、「ものが存在している」とか「ものが存在していない」という言葉に意味を持たせているのでしょうか。それは、その言葉が使用されている日常生活の状況です。わたしたちは、生まれてこのかた、まわりの人びとが、「テーブルに新聞がある」とか「テーブルに新聞がない」、「冷蔵庫にジュースがある」とか「冷蔵庫にジュースがない」など、「〜がある」「〜がない」という言葉が使用されている数多くの状況を経験することによって、その言葉の意味を知るようになります。そのような状況を他人に説明するために、「〜がある」「〜がない」という言葉が作られ、使用されているからです。

つまり、わたしたちの日常生活の、「テーブルに新聞がある」とか「テーブルに新聞がない」、「冷蔵庫にジュースがある」とか「冷蔵庫にジュースがない」というような(知覚)体験が、「〜がある」「〜がない」という言葉に意味を与えているのです。自然科学はただ日常生活の知覚体験の延長にすぎません。肉眼で直接見えないものを、顕微鏡や望遠鏡などを使用して、観察し経験するものだからです。したがって、

日常生活や自然科学の知覚体験が、「ものが存在している」とか「ものが存在していない」という言葉に意味を与えている
ことがわかります。ところが、すでに指摘したように、
「ものがそこに存在していることを前提」にするためには、「ものが存在している」とか「ものが存在していない」という言葉の意味が先に成立していなければなりません。
これらのことから、「ものがそこに存在していることを前提」にすることができる(存在という言葉を使用できる)ためには、日常生活や自然科学の知覚体験が、すでに、前提にされていなければならないことがわかります。だから、その逆(日常生活や自然科学の知覚体験が存在を前提にしているの)ではあり得ないのです。つまり、日常生活や自然科学によって客観的に知覚対象になるものは、その存在が仮定されているのではなく、日常生活や自然科学の知覚体験によって、その存在が決定されているのです。