佐倉様

あけましておめでとうございます。

リンクの許可をいただきまして、ありがとうございます。御礼が遅れましたことお許しください。

故あって私は、クリスチャンになりましたが、成り立てで不勉強なので佐倉さんの書かれていることを参考にしながら少しずつ学んでいるという状況 です。

私にとっては大きな矛盾なのですが、私は信仰告白をしましたが、キリスト教を絶対化したり、他者を勧誘したりするつもりはありません。その理由は、「思想を掲げて運動する他者へ〜私は何故運動をしないのか」http://www1.odn.ne.jp/‾cak69050/msisoukaka.htmlに書きました。クリスチャンになる前に書いたものですが、今もこの文章に書いた考えは変わらないです。

私は、信仰告白をしましたが、天国に行くことに興味はありません。自分がどこから来てどかへ行くのか、真実が知りたいです。仮に、無からこの私が生じて無に帰すとしても、私はそれが真理なら受け容れようと思います。神が存在しないというのなら、そのことも同じです。

それから、神と良心、どちらに従うかということについては、良心に従います。神の命に背き地獄に行くことになったとしても、自らの良心の命じることを行い堂々と地獄に落ちたいと思います。そのような事態に直面したとき、私に勇気と誠実さがあれば、そうするはずです。

では、お前は本当に神を信仰しているのか、一体何を信仰しているのかと問われれば、一言もありません。 今の私には、応えられません。私は、あの日、信仰を告白しました。牧師先生の前で、神の御前で告白しました。その間、長い間、涙がとめどもなく溢れてきました。

今の私にはわからない、応えられない問いです。

「聖書の間違い」については、これから学んでいこうとしている私にとっても、大きく自分を揺るがされる感じがします。数年前、特定の思想信条を信じていたわけではありませんが、私自身の子供から培ってきてものが、一切が根底から解体し崩壊していくという内的世界の大変動を経験しました。規模としては違いますが、佐倉さんのHPを読みながら、グラグラと深いところで大きく揺れながら、生きていっています。正直言って辛いです。

「仏教について」「日本の思想について」「日本と世界について」「日本の社会について」、聖書の間違い以外のエッセイにも興味を惹かれて読ませていただいております。特に仏教の「無我の思想」「空の思想」、日本の思想の「和の思想」については、大いに「聖書の間違い」よりも惹かれており、私自身の思想形成に大いなる刺激となりつつあります。

佐倉さんが、御自身の問いに対する応えを得たくてエッセイの数々を公表し対話を繰り返されている(と私は理解していますが)。この佐倉さんの姿勢を心から支持し応援したいと思います。

仮に自分と思想信条は異なっていても、互いの言論を尊重し、互いに自らの思想の根底が揺れて崩壊する危機にさらされようとも、恐れず勇気を持って、対話を繰り返しながら真理を探求していく。しかも公開の場で。素敵なことです。

こうした言論・表現の自由がある幸せを心から感謝したいと思います。


過大な関心を持っていただいて恐縮しています。

仮に自分と思想信条は異なっていても、互いの言論を尊重し、互いに自らの思想の根底が揺れて崩壊する危機にさらされようとも、恐れず勇気を持って、対話を繰り返しながら真理を探求していく。しかも公開の場で。
このようにあらためていわれると、ちょっと照れ臭くなってしまいますが、やっぱり、いろいろな人の反論の洪水に洗われて、やっと、「これなら」という感じのものがつかめるような気はします。だれでも自分に都合のよいことばかりを、そっと心の中で「真理である」と思い込んでいたいですからね。また、自分の間違いを認めることができることが真理探究者の重要な必要条件だと思いますが、これはわかってはいても難しいものです。この意味でも、徹底的にたたかれるところに自分を置いてみるのがやっぱりよいような気がします。インターネットは、あまり金のないわたしたちに、これらのことを可能にしてくれます。