佐倉さん、こんにちは。

鶏が鳴いた部分は写本によって異なり大変難しいところです。 聖書は多くの部分で本文が確定されていないことを考慮すべ きです。 しかしながら日本ではこのようことは知らされていなく問題 が大きいと思います。 聖書でも新共同訳に至っても殆ど注らしいものがない故、判 断することができないではないですか。

ΚΑΙΑΛΕΚΤΩΡΕΦΩΝΗΣΕΝ

<無い写本>
01、4世紀、ロンドン
03、4世紀、ヴァチカン
019、8世紀、パリ
032、5世紀、ワシントン
579、13世紀、パリ
892、9世紀、ロンドン
2427、14世紀、シカゴ
小文字写本少数
シリア語シナイ写本
コプト語ボハイル方言
コプト語サヒド方言

<有る写本>
02、5世紀、ロンドン
04、5世紀、パリ
05、5世紀、ケンブリッジ
038、9世紀、トビリシ
044、9・10世紀、アトス
067、6世紀、ザンクトペテルスブルク
1、33ファミリー
33、9世紀、パリ
1424、9・10世紀、シカゴ
小文字写本の多数
シリア語ペシッタ
シリア語ハルクレア
カエサリアのエウゼビウスの引用

アレフ写本(01)とヴァチカン写本(03)に無いのが 問題があります。これらは年代が古く多くの本文確定に影 響しているからです。

ところでマルコ、14章72節の「鶏が再び鳴いた。」 で01と019と579ではΕΚΔΕΥΤΕΡΟΥ (二度目に)がありません。 いきなり2度目がくるのはおかしいとは思ったのでは。

しかし鶏が2度鳴くことがイエスの言葉の成就なので、 (これらは混乱はあるが伝わっている)もともとは 68節はあったと思います。 エウゼビウスは340年には亡くなっているので少なく ともそれ以前にはカエサリアには68節のあった写本が 伝わっていたと思われます。

何気なくドイツ語聖書を読んでいたら68節に In diesem Augenblick kraehte ein Hahn. とありました。Augenblichは瞬きの間というような 意味で、何かものを頼むとたまに言われる言葉 ですが瞬きの間に解決するわけではないので あきらかに欺瞞なのですが... しかし原典にないような単語を追加するのはいっ たいどうゆう了見なんでしょう。


わたしも、68節に「鶏が鳴いた」があった(つまり、ペテロがイエスを一回目に否定したすぐ後鶏が鳴いた)と考えるのがいちばん適切だと思います。おっしゃるとおり、マルコでは(他の福音書と違って)イエスは

今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないというだろう。(マルコ14:30)
と予言したのですから。

しかし、そうなると、マルコの福音書と他の福音書との間の矛盾が明らかになってしまいます。他の福音書では、イエスは

鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。(マタイ26:34)
と予言していたからです。現在でも、ペテロの否定といえば、大抵こちらの方を思い出す人が多いだろうと思いますが、初期のころもそうだったのかもしれません。そのために、このポピュラーなバージョンに合わせるために、先ず、ペテロがイエスを知らないと一度否定しただけですぐ鳴いてしまう68節の「(最初に)鶏が鳴いた」を欠落させる異写本が出来あがり、その次に、狸さんのおっしゃるとおり、「いきなり2度目がくるのはおかしい」ので、72節の「鶏が再び鳴いた」から「再び」を欠落させる、異写本の異写本が出来上がったのだろう、と想像されます。


それにしても、日本の翻訳聖書では、これらの写本の相違を示す説明がほとんど完全に欠落しているのは、ほんとうに残念ですね。他の問題はありますが、写本間の相違を脚注に載せる点においては、おそらく『新世界訳』(エホバの証人の聖書)が、ほとんど唯一の日本語訳かもしれません。しかし、興味深いことに、この68節に関しては『新世界訳』も「鶏が鳴いた」を脱落させ、脚注も写本間の相違について沈黙しています。エホバの証人は聖書の権威を示す証拠として、聖書のすべての予言は成就しているとしばしば強調しています。ペテロがイエスを知らないと一度否定しただけですぐ鳴いてしまう68節の「鶏が鳴いた」はまずい、と思ったのでしょう。

聖書の形成過程とは実に人間臭いものです。聖霊は何をやっていたのでしょうか。

貴重な資料の提供、ありがとうございました。