お久しぶりです。いつも楽しみに読ませていただいています。

さて参考までにと思いまして、お便りいたします。

匿名さんの書かれている話題に尾山令仁師の『聖書 現代訳』が出ていました。これは羊群社から1983年くらいに出版された、尾山師による聖書全体の個人訳です。初心者向けの敷衍訳(自由訳)で、the Living Bible(リビング・バイブル)の和製版です。

かつて入手したことがありますが、私には無用の翻訳だったので、熱心なクリスチャンに差し上げてしまいました。

参考までに、尾山師の聖書解釈と翻訳の一例を挙げておきましょう。

最後の時には、二つのことが行なわれます。まず第一のことは、「選別」ないし「区分」です。イエス・キリストによって備えてくださった神の救いをすなおに受け入れた人々と、それをむげに拒んだ者たちとの選別であり、区分です。それは、主イエスが次のように教えておられるところからもわかります。
「わたしが栄光に輝きながら、御使いたちとともにもう一度この世に来る時、わたしは栄光の座に着きます。そして、すべての民族が、わたしの前に集められます。わたしは、ちょうど羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、信者と不信者を右左に分けます。」

(マタイ25・31〜33 現代訳)

このような選別、ないし区分けがなれる〔なされる? 誤植?〕のです。

(『聖書の教理』羊群社、1986、316頁)

マタイ25・33の訳ですが、正しくは「羊を右に、やぎを左におくであろう」(口語訳)です。それを尾山師は「信者と不信者を右左に分けます」と訳しています。初めから「羊=信者、山羊=不信者」と思い込んでいて、それを翻訳(彼の現代訳)にも折り込んでいるわけです。

ですが、マタイ25章全体(そもそもマタイ福音書全体)を読めば分かるように、この解釈はまったく間違っています。この個所では、羊と呼ばれる人も山羊と呼ばれる人も、再臨のキリストのことを「主」と呼んでいます(25・37、44)。つまりどちらも信者です。

彼らの区別は、むしろ行ないによります。信者である兄弟のうち、弱い立場の人に対して、親切にしたかどうかによります。空腹の兄弟を見て食べさせたか、渇いている兄弟を見て飲ませたか、旅人の兄弟に宿を貸したか、裸の兄弟に着せたか、病気の兄弟を見舞ったか、獄にいる兄弟を尋ねたか(25・35−36)、そういった善行が天国か地獄かを分ける、というわけです。

信仰よりも行ないが大事、というのは、確かにパウロ的ではありません。ですがマタイ(というかマタイたち)は実際にそう考えているのです。聖書の内容(というか原始キリスト教の教派事情)は、保守的キリスト教徒が考えているよりもはるかに複雑です。

とりあえず、短い引用でしたが、尾山令仁師がどういう考えの持ち主なのか、『聖書 現代訳』がどういう翻訳なのか、佐倉さんにはおおよそ見当がつかれたことと思います。(たぶん予想どおりだろうと思いますが。)

それでは、佐倉さんの今後のご活躍をご期待しております。

by 長谷川順旨

たぶん予想どおりだろうと思いますが・・・

匿名さんのわずかな引用を読んだだけで、これは「リビング・バイブル」からの翻訳、あるいはそのまね事だな、と思っていました。「リビング・バイブル」はほんとにひどい「翻訳」です。よく平気でこんなことができるものだと、読むたびに、ため息が出てきます。「良心と信仰」の問題(信仰は良心を麻痺させるか)を考えさせる「聖書」です。尾山令仁師の『聖書 現代訳』も、日本人のクリスチャンにとって、「良心と信仰」あるいは「真理と信仰」の問題を考えるうえで、よい教材となるかもしれません。

いつも、貴重な情報をありがとうございます。