(これは「12月12日」の続きです)

あまりもご自分の意見に酔われているようなので、佐倉氏にもわかりやすく説明しま す。

(1)『聖書の記述が間違っているかどうかは、それを書いた人の動機や思考経過とは無 関係  に決定されることを示したのです。

という佐倉氏の検証方法が既に聖書の検証方法として意味を持たないと言っているわけです。なぜならば聖書は明らかに意志や考えを持って書かれているのであり、そこには当然何らかの意味が含まれています。しかし佐倉氏はそれを無視して、機械的に処理されているだけなのです。私が

「1+1=3」が誤りだということは「1+1=3」ということを検証する以前の問題です・・・誤りだという事が数学的に100%証明できる・・・

と言っている事は、明らかに意味を持って書かれている物語に対して、機械的検証だけの根拠で矛盾だと思われている佐倉氏の主張はおかしいと言っているのです。例えるならば「1+1=3である」という主張があったとします。さて、この主張が「間違い」であるという事を証明する場合には確かに

『なぜ誤った主張をしたのかという説明、すなわち、誤った記述をした人の頭の中の 出来事(動機や思考過程)を考慮にいれる必要は必ずしもない』

その通りです。なぜならこの計算式の場合、計算式自体が自己矛盾しているからです。自分で自分を「矛盾しています」と公表している事柄に対して動機や思考過程を推察するほうがむしろおかしいのですが、この物語の場合17、18、20章はそれぞれ関連のある内容ではなく独自に構成されているにも関わらず、17、18章と20章の物語は矛盾していると佐倉氏は主張されているわけです。そして

『わたしは、「1+1=3」のたとえを使って、この計算式が正しいかどうかは、「1+1=?」という算数問題に対して「3」という解答をあたえた人物の頭の中の出来事(動機や思考経過)とは無関係に決定されることを示したのです。』

とも主張されているのですが、私はここに佐倉氏の思い込みがあると言いたいのです。例えば聖書は「サラの妊娠の告知」に対して「サラは妊娠できなかった」とは書かれていません。この一連の物語の中のどこに互いに否定仕合うような事がかかれているのでしょうか?この物語が矛盾だという佐倉氏の根拠となるものは、「聖書の記述」という問いかけに対して「聖書の解答」ではなく「佐倉氏の基準」をあてはめているだけではないですか。佐倉氏の根拠は「この記述は自分の基準に合ってない」というものでしかないのです。それを佐倉氏はもっともらしく聖書の記述同志が間違っていると思いこんでいるだけにすぎません。私はそれに対し

『「矛盾」というのは同一の事柄が整合のない事を言う』

と言っているのですが、佐倉氏が主張されているように「17、18章」と「20章」の物語の矛盾点はどこですか?互いに打ち消し合う部分がどこにあるのでしょうか?そんなものはありません。佐倉氏の主張は「17、18、20章」の物語は「自分の基準」とは「矛盾している」と言っているに過ぎません。にもかかわらず、

『妻を妹と偽る物語」が間違っているのは、20章の物語と17・18章の物語が矛盾しているからです。』

と、まるで聖書の記述同志が合ってないように主張されているのです。指摘している事(物語同志の矛盾)とその根拠(自分の基準との矛盾)が整合性がない、こういう主張の事を矛盾していると言うのです。だったら最初から「聖書の記述は現代の常識に矛盾している」と主張すればいいのに、佐倉氏は、「聖書の記述同志は矛盾している」と主張してはばからないわけです。だから私は「だだをこねている」のは佐倉氏であると言っているのです。


(2)人の主張をかってにいじらないでほしい

『これらの記述に夫婦のセックスの営みへの言及を認めないことこそ、無理な解釈なのではないでしょうか。』

と言われているようですが、私の文章に目を通しておられるのですか?私はセックスの営みへの言及を認めないとは一言もいってません。

『17章18章ではサラが妊娠するという「神の予告」に対してサラが「何の楽しみ(セックスも含み)もない」という物語で、20章ではアビメレクがサラを召し入れて神の警告を受ける物語です。』

とセックスの営みも含めています。私は佐倉氏がセックスに執着されているのを見て、サラの発言は「セックスの営み」だけのものではないと言っているのです。しかし佐倉氏はサラの「何の楽しみも無い」という発言をセックスに関してだけに言及している。この事は文章の理解に偏りがあると言わざるを得ません。ならば逆にお尋ねしますが、老年になれば衰えるのは性欲だけでしょうか?そうではないでしょう。なぜなら老年になれば体力の衰え、味覚の衰え、聴覚の衰え、視覚の衰え、食欲の衰え等様々であるからです。勿論その中に性欲の衰えもあるでしょう。そして、アビメレクとの事でもやはりセックスに囚われているようですが、

『アブラハムが妻を「妹である」と偽れば助かると考えたのか、理解できなくなると思います。』

セックスに関しての意味をつけなければ理解できないというのは佐倉氏だけだと思います。美しい女、賢い女であれば権力者は手に入れたいものです。そしてそんな女が人妻であったならどうするか?これは現代でもワイドショーをにぎわせるように、持ち主を殺して奪う、例えば愛人である女が相手の妻を殺す、あるいはその逆などです。現代社会なればこそ法律にひっかかりますが、この時代にそんな考え方などあるわけもなく、「力こそ正義」の時代に美しい妻を持った人が権力者に対しどのような保身策を取るか、妻を妹と偽れば女を差し出せば自分は殺される事はなくなります。殺す理由が無くなるからです。故にアブラハムは美しい妻であるサラのために自分が殺される事を恐れ、サラを妹と偽った。セックスの事などなんの関わりもありません。「セックス」ではなく、「美しさ」です。それとも佐倉氏の言われる「美しさ」って女性器の美しさの事ですか?

『この二つの物語の間には、容易に調和することのできない矛盾があり』

とも言われていますが、どんな矛盾なのでしょうか?1つ1つの物語を現代の常識に照らし合わせた後、物語同志を見ると背景において矛盾しているように思えますが、単に物語同志の間には何の矛盾もありません。物語同志の比較において『容易に調和することのできない矛盾』ていったい何ですか?それはすべて現代の常識と照らし合わさなければ出てこないものじゃないですか。だったら、前述しましたが「聖書の記述は現代の常識に矛盾している」と主張すればいいんですよ。そうしないのはやはり「聖書には矛盾があるはずだ」と結論付けたいからではないですか。「物事は自分の常識に合うはずだ」という目隠しをしているだけと考えざるを得ません。


(3)言葉の意味が理解できなかったようですな

『わたしの判断はもちろん「極めて人間的な判断」ですが、自分の判断はそうではない(人間的な判断ではない、神的なものである、聖霊に導かれたものである)とひそかに思い込んでいるところに、キリスト教原理主義者の根本的な問題があります。

どんなに「信仰による」と主張しても、どんなに「聖霊の導きによる」と強く信じても、結局は心のなかの自分勝手な思い込みにすぎません。したがって、わたしの立場とキリスト教原理主義者の立場の間にある相違は、一方が「人間的な判断」で他方は「神的な判断」であるというところにあるのではなく、一方は自分の判断が人間的判断であることを自覚しており、他方はそれを自覚していないだけ、というところにあります。』

との事ですが、こちらの意図している意味にとられていないようなので言葉を変えますと、佐倉氏の根拠は「極めて自己基準的な判断」だという事です。私は自分の判断が「神的」だとか「導き的」だとか思っていません。私は「聖書の真の意味」を主張しているのでもありません。私は自分が聖書を読んで解釈した事に基づいて反論しているのです。この問題においても、結局は佐倉氏の「心のなかの自分勝手な思い込み」を常識に足して聖書を理解しようとし、その結果矛盾だと主張されているだけです。結局のところ佐倉氏は『自分の判断が人間的判断であることを自覚』しているのではなく、『自分の判断が常識だけにとらわれている事を自覚していない』のであり、それ故「信じるか、否」かという事柄に対して信じられないから矛盾であると「自己基準的判断」で」決めつけているだけです。それ以外に何の根拠らしいものはありません。

ちなみに佐倉氏はよく「キリスト教原理主義者」と言われますが、私は佐倉氏がキリスト教の原理、根本についてまともに理解されていないように思えてなりません。それだけでなく、他の所で「どんなに聖書を学んでも」とも広言されていますが、佐倉氏の論説を読んでいると言うほど聖書について学んでないような、あるいは聖書を歪んで教えるグループで学んでいるような気がしてなりません。(これはまた別の機会に取り上げますが。)今後のために佐倉氏が以前通っておられた教会のグループ、系統、教派、神学的位置等などを教えていただけませんでしょうか。宜しくお願いします。

美しい他人の妻、セックス、夫殺し

アブラハムは美しい妻であるサラのために自分が殺される事を恐れ、サラを妹と偽った。セックスの事などなんの関わりもありません。「セックス」ではなく、「美しさ」です。それとも佐倉氏の言われる「美しさ」って女性器の美しさの事ですか?

サムエル記下11章には、ダビデ王が、かれの軍もとで戦うのヨアブの家臣ウリヤを、わざと危険な戦場に送って戦死させ、ウリヤの美しい妻を奪う物語があります。

ある日の夕暮れに、ダビデは午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していた。かれは屋上から、一人の女が水を浴びているのを目に留めた。女は大層美しかった。ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった。ダビデは使いのものをやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした。・・・(2-4)
ところが、彼女は「子を宿しました」とダビデに報告します。そこで、ただちにダビデはウリヤを戦場から引き戻し家に帰させようとしますが、ウリヤは
「わたしの主人ヨアブも主君の家臣達も野営をしていますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いをしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか・・・」(11)
といって、家に帰ろうとしません。そこで、ダビデは恐ろしい計画をします。
翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した。書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれていた。(15)
ダビデの望み通り、ウリヤは戦死します。
ウリヤ妻は夫ウリヤが死んだと聞くと、夫のために嘆いた。喪が明けると、ダビデは人をやって彼女を王宮に引き取り、妻にした。彼女は男の子を生んだ。ダビデのしたことは主の御心に適わなかった。(26)
アブラハムやイサクが自分の妻が大層美しいので、妻を奪うために自分が殺されてしまうかもしれないと考え、妻を妹と偽ったという物語の背後には、このようなことが実際に起こりうる社会的事情があったからでしょう。
創世記 12:11-15
エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくに違いない。どうか、わたしの妹だ、と言って下さい。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライは宮廷に召し入れられた。(中略)ところがヤーヴェは、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」

創世記20:1b-14
ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。その夜、夢の中でアビメレクに神が現われて言われた。「あなたは召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ。」アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、「主よ、あなたは正しいものでも殺されるのですか。彼女が妹だといったのは彼ではありませんか。(中略)わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」と言った。神は夢のなかでアビメレクに言われた。「わたしも、あなたが全くやましい考えなしにこの事をしたことは知っている。だからわたしも、あなががわたしに対して罪を犯すことがないように、彼女に触れさせなかったのだ。直ちに、あの人の妻を返しなさい。」(中略) アビメレクはそれから、アブラハムを呼んで言った。「あなたは我々に何と言うことをしたのか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に大それた罪を犯させようとしたのか。(中略) どういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この土地には、神を恐れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。」(中略)アビメレクは羊、牛、男女の奴隷などを取ってアブラハムに与え、また、妻サラを返して言った。「この辺りはすべてわたしの領土です。好きなところにお住みください。」

創世記26:1-11
アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った。(中略)その土地の人がイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて、「わたしの妹です」と答えた。リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないかと思ったからである。イサクは長く滞在していたが、あるとき、ペリシテ人の王アビメレクが窓から下を眺めていると、イサクが妻のリベカと戯れていた。アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。「あなたは何ということをしたのだ。民の誰かがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはこの人の妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」

矛盾を認めたくないばかりに、「セックスの事などなんの関わりもありません」と思いたがっておられるようですが、「床を共にする」「まだ彼女に近づいていなかった」「彼女に触れさせなかった」「あなたの妻と寝たら」、などというセックスへの言及が示すように、これらの聖書のものがたりでは、「美しい女」を(妻として)手に入れることとセックスとは深く結びつけられています。

美しい女を妻にしたい、という願望のなかには、通常、「床を共にする」ことへの願望も含まれています。それは、「現代人の常識」の偏見ではなく、聖書のこれらの記述も述べているように、おそらく、どの社会においても、いつの時代においても同じなのでしょう。