(これは「11月20日」の続きです)


佐倉氏は

『なぜ、間違いとすぐわかるようなことを書いているのか、というご質問だと思いますが、「記録した者の思考」など現代のわたしたちにわかるわけがありませんから、こういうことは想像してみるほかありませんが、わたしの想像するところでは、やっぱり、間違いとすぐわからなかったからだと思います。実際わたし自身も、なんども読んでいた物語であるにも関らず、長い間このことにまったく気がつきませんでした。 』
と言われているのですが、明らかに自分たちの現実とかけ離れた記録に何の疑念も持たないはずがないでしょう。40歳くらいならいざしらず、どう考えてもあり得ないような年齢設定になっているんだから。

 別にその時、筆者なり編集者なりが分からなっかたとしても、・・・・ヨシュア記1:8に「この律法の書」とあるところから、モーセ五書の外郭的なものがヨシュア時代に成立していたとすると・・・キリスト教成立まで少なくとも1千年以上もあるのに、肯定派も否定派も含めて創世記を目にし耳にしたた膨大な人々が誰一人この物語に疑いを持たなかったのでしょうか。・・・ちなみに私はこの物語におけるアブラハムとサラの年齢設定にすぐに気を留めましたが・・・もし佐倉氏の主張通りとすると、歴史上の偉人たちその他多くの人々が、私がすぐに気がついた事を佐倉氏と同様に『うっかり』見過ごしてしまったのでしょうか。とすると、その人々全員を『うっかり』させる事のほうが奇跡なくらいに難しい事のように思えますが。・・・その『うっかり確率』を数学者に求めさせれば結構いい題材になるかも・・・。もしそうなら、ヨシュア時代以来、何千何万何億もの人々が『うっかり者』という事になります。その中には歴史上の偉人、人類史に貢献した人もいるだろうに・・・ああ、幾万という『うっかり者』たちによって発展させられた文明に生きている我々はどれくらい『うっかり者』なのだろうか・・。

ともあれ、創世記が一人で纏められたものでも、後に編集されたものであったとしても、この物語の年齢に関しての結論が『うっかり見過ごした』という事で纏めてしまって誰が納得するのでしょうか?聖書否定派であったとしても納得するとは思えません。現実に、あまり聖書を読まない私でさえすぐに気が付いたのですから。佐倉氏が何度読んでも気付かなかったのは物語を読んでいるのではなく、文字を見ているだけのように思われて仕方がありませんが?だから、結局『うっかり』という極めて否論理的かつ安直な答えしか思いつかないのでは?

人類史の解釈がどうであろうが、編集者の頭の中でなにが起こっていようが、 わたしたちの現前の事実として、聖書の記述そのものが矛盾しているのですから、言い逃れる道がありません。すなわち、わたしたちに伝えられている聖書によれば、「妻を妹と偽る物語」(20章)が、老翁老婆となってセックスの楽しみなどあるはずがないつぶやいた物語(17章18章)の後にくるので、一つの物語として読むとき、きわめて滑稽で矛盾した物語となっているのです。この矛盾の事実(滑稽さ)は、それにいままで気がついた人がいたかどうか、あるいは、編集者の頭の中でどんな思いがよぎっていたか、ということにまったく依存していません。

「1+1=3」という計算式において、それが間違っているか否かは、この計算式が書かれたとき、それを書いたひとの頭の中でなにが起こっていたか、というようなことにはまったく依存していません。すなわち、この計算式を書いた人がそのとき「うっかりしていたのか」それとも「一生けんめい真剣に考えていたのか」それとも「いいかげんなきもちだったのか」 --- そういうこととはまったく無関係に、その正誤が決定されます。それを、「こんな簡単なことを間違うはずがないのだから、間違っていると認めるわけにはいかない」、などというのは駄々をこねているだけといわねばなりません。

「妻を妹と偽る物語」が間違っているのは、20章の物語と17・18章の物語が矛盾しているからです。矛盾しているということは、両方とも真実である可能性がないことを意味しています。すなわち、すくなくとも一方の物語は間違っていることを意味します。そして、この物語が間違っているという事実は、これらの物語が書かれたとき、それらを書いていた人や編集した人の頭の中でなにが起こっていたか、あるいはその後の歴史で何が起こったか、などということにはまったく関係ありません。

矛盾しているという事実だけに依存して、「この物語は間違っている」という主張が成立しているのです。