お返事(11月15日)読まさせていただきました。 予想通りいろいろ書いてありますね。 いくつか質問させて下さい。


(1)神についての知識

”わたしは、結局、神を信じていたに過ぎず、本物の神についてはなんの知識も持ちあわせていない事実をすなおに認めるようになったのです。”とありますが、佐倉さんの基準によれば、相当頭が良くて努力をする人でないとなんだかダメだと言われているように思えます。私のようにたいして頭の良くない人はどうすればよいのでしょうか?こればひねくれて言っているのではありません。客観的に見て私よりも佐倉さんの方が頭が良いと思われるからです。知恵遅れの人や生後まもなく死んでしまった人は何の知識も持つことができずメチャクチャむなしい存在に思えますが。


(2)「ある仏教徒の『死後の世界観』について

”単純な事実は、わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。”と書かれていますが、佐倉さんが死なれた後、この世界が存在し続けるという保証はどこにも無いのではないでしょうか?佐倉さんは常に真理を求めておられるようですが、そのような不確かなものを受入れてしまっていいのでしょうか?それから、死後人間は塵となってしまうのなら、いくら今良い生き方をしてもやっぱりむなしいのではないでしょうか?


(3)高貴な選択

”幸福感に浸るために誤謬を信じるよりは、たとえ不幸になっても事実を知ることの方をよりすぐれた(高貴な)選択である、”とありますが、不幸になったらやっぱりいやですよ。死後人間は塵になってしまうのなら幸福感を味わった方がいいと思いますが。


(4)正しい宗教

”「キリスト教以外になにかもっと正しい宗教があるとお考えでしょうか?」 こういう質問は、いかにもクリスチャンらしい質問だと思います。自分たちだけが正しいと思っているからです。キリスト教の最も醜いところです。” 答えになっていません。一番正しいと思ったものを信じるのは不思議なことではないと思います。ある仏教徒の死後の世界観に共感を覚えていらっしゃるようですが、仏教が正しいとお考えでしょうか?それなら仏教を信じても誰も文句は言いませんよ。


(4)最後に一言。

別に知識はなくてもいいじゃないですか。人間の頭では神のすべてを知ることができないから神が人間の姿(イエス)をとって地上に来られ具体的に神について語られたわけでしょう?12弟子のペテロやヨハネは元漁師。教育なんてほとんど受けいていなかったはずです。そういう無学で知識のない人でも信仰(思い込みではない)によって変えられる訳です。

日本より愛をこめて

尾垣祐之


(1)神についての知識

わたしは自分が神について何も知らないことを告白しているだけなのですが、それが、どうして「佐倉さんの基準によれば、相当頭が良くて努力をする人でないとなんだかダメだと言われているように思えます・・・」ということになったのでしょうか。頭が良いかどうかという問題では全然ありません。わたしたちが神について語るとき、わたしたちは本当に神について語っているのか、それとも、神についてわたしたちが心に作り上げた神像について語っているのか、という問題です。わたし自身に関して言えば、この問題は決着がついたのです。わたしは神について何も知らないことを認めるにいたったのです。


(2)「ある仏教徒の『死後の世界観』」について

おっしゃるとおり、わたしが死んだ後「この世界が存在し続けるという保証」はどこにもありません。だから、わたしは「わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろう」とわざわざ言葉を選んで書いているのです。わたしはただ、毎日人は死んでいるけれど、そんなこととは関係なく世界は存続し続けているのだから、わたしが今日死んでも世界は明日も存在しているだろう、という単純なことを述べているにすぎません。

死後人間は塵となってしまうのなら、いくら今良い生き方をしてもやっぱりむなしいのではないでしょうか?
有史以来、じつに数多くの人間が死んでいき、昨日も今日も人は死に続けていますが、わたしたちの現在の生が、依然として先人たちの努力の上に成り立っていることは言うまでもありません。かれらは死んで塵となりましたが、かれらの生はわたしたちにとって無意味なものではありません。借金を踏み倒して死んでいけば、残された者たちは苦労をするし、道を作り橋を架けた人たちの努力は、残された者たちの生活を豊かにします。自分のことしか考えることができなければ、おそらく、「人間が死んで塵となるとすれば人生はむなしい」と思うかもしれません。


(3)高貴な選択

”幸福感に浸るために誤謬を信じるよりは、たとえ不幸になっても事実を知ることの方をよりすぐれた(高貴な)選択である、”とありますが、不幸になったらやっぱりいやですよ。死後人間は塵になってしまうのなら幸福感を味わった方がいいと思いますが。
だれも好き好んで不幸になりたいと思う者はありません。だれでも幸福でありたいと思うのは当然でしょう。しかし、わたしたちの価値観は複雑なようで、「幸福か不幸か」という単純な物差しで行動するとは限りません。今よりももっと不幸になるかもしれない、他の選択をすればもっと幸福な結果を得られるかもしれない、と思っていても、ある選択を「よりすぐれたもの」として選ぶことがあります。たとえば、人々が、しばしば、隷属して楽をするよりは、苦しくても独立する方を選んだりするのは、幸福感の価値観とは別の価値観である「自由や高貴さ」を選択の物差しとするからでしょう。

「幸福」は、宗教団体が信者を獲得するためのエサとして、人々の眼の前にぶら下げるものです。幸福感だけを価値観の物差しとすれば、他人を隷属させることや他人に隷属することが容易になるからです。幸福のためには、何が真理であるかは他人に選んでもらってもよい、と考える人々がいるかぎり、ドグマの奴隷はなくなることはなく、したがって、宗教団体も繁盛することでしょう。

「あなたも、わたしたちの団体に入って、幸福になりませんか?」
用心、用心。


(4)正しい宗教

答えになっていません。一番正しいと思ったものを信じるのは不思議なことではないと思います。
それぞれの宗教や教会が、自分たちの主張は正しく他の宗教や教会は間違っている、と真剣に主張すればするほど、それを外か見れば、滑稽でナンセンスなものとなります。それが滑稽でナンセンスなのは、
(ア)相互に主張が否定されている。
(イ)それぞれの主張が信仰(思い込み)によるために、客観的な判断基準がない。
からです。わたしはそういう次元の論争に加わるつもりはないので、「キリスト教以外になにかもっと正しい宗教があるとお考えでしょうか?」という種類の質問には答えるつもりはないのです。

キリスト教が醜いのは、自分勝手な主張をするだけでなく、自分たちと違う宗教を持つ文化を軽べつし滅ぼす意志を持っているからです。


(4)最後に一言。

別に知識はなくてもいいじゃないですか。人間の頭では神のすべてを知ることができないから神が人間の姿(イエス)をとって地上に来られ具体的に神について語られたわけでしょう?12弟子のペテロやヨハネは元漁師。教育なんてほとんど受けいていなかったはずです。そういう無学で知識のない人でも信仰(思い込みではない)によって変えられる訳です。
わたしたちが知っているのは、「神が人間の姿(イエス)をとって地上に来られ具体的に神について語られた」と言い触らす人がむかしいたというだけで、かれらの言い触らしたことがらの内容が事実であるという証拠や根拠はまったくありません。それどころか、かれらの主張したことが矛盾と誤謬と空想にみちている事実から、一般に、かれらの言うことは鵜呑みにできないことがわかります。

「幸福の科学」の大川隆法教祖も、「神が形をとって地上に現象した人」だそうです。統一教会の文鮮明教祖夫妻も、神の姿をあらわす「人類の真の父母」ということになっています。どんな信者も自分たちの教祖さまについて過度な思い込みをしているものです。

信仰は根拠を示すことなく真理を主張するのですから、客観的な真理(知識)ではなく、自分勝手な思い込みに過ぎません。わたしが問題としているのは、知っていないにもかかわらず、知っていると思い込む信仰の態度のことです。尾垣さんもここで、「信仰(思い込みではない)」と、ポロッと本音を語られているように、信仰者は、その主張の根拠を示すことを求めらるとき、いつでも「ただ信仰による」と逃げるくせに、心の中では、秘かに、単なる思い込みではない、と思っているのです。 だから信仰は自己偽慢です。信仰とは、「幸福」という賄賂をもらうために、良心の法廷で、自分自身に対して「誤謬さえ真理である」「不確かなものさえ、確かである」と偽証する不正な行為です。