はじめまして

検索エンジンでこのサイトを見つけました。

佐倉さんは以前はクリスチャンとしての信仰を持っているとご自分で思い込んでいたんですね。なにがきっかけで聖書を批判するようになったのですか?もしかまわなければ教えて下さい。

佐倉さんが主張されているように聖書には矛盾と思われる個所がいくつもあります。私自身もそれらを全てうまく説明できません。しかし、イエス・キリストの死後約2000年経過した現在、世界中には多くのクリスチャンが存在します。彼らの多くは私と同じで聖書の矛盾と思われる個所について全てうまく説明できないでしょう(専門家は説明できるでしょうが)。

しかし彼らはこのイエスという方が自分の罪の身代わりとして十字架上で死んでくださり、三日後に復活されたという単純な信仰を持っています。その結果、自分は死んだ後も父なる神のもとである天国に帰り、永遠の命が与えられるという平安を持っています。私も同じです。佐倉さんはどうでしょう?ご自分の死後について不安はありませんか?佐倉さんは人間は死後どこへ行くとお考えでしょう?是非教えて下さい。

それからキリスト教以外になにかもっと正しい宗教があるとお考えでしょうか?もしあれば教えて下さい。おそらく佐倉さんほどの方が完全に正しいと認められる宗教はないと思いますが。佐倉さん自身が新しい宗教を作るという手もあります。まあそんなことには興味はないでしょう。

それから、聖書の矛盾を探すのもいいんですが、正しいこともあるのではないでしょうか?例えばイスラエルが1948年に再建されたことは預言の成就と思われます。挙げればきりがありませんが、それらについてはどう思われるでしょう?やっぱり何かの間違いですか?だとすると聖書って何なんでしょう?間違いだらけのくだらない書物でしょうか?それを信じてるクリスチャンは世界一の大馬鹿野郎でしょうか?もし、くだらないものなら佐倉さんほどの知性の持ち主が批判する価値はないんじゃないでしょうか?

基本的に信仰は「信仰は望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」とヘブル書11章1節にあるように、目で見ていないことを信じるということです。従って批判があっても大馬鹿野郎のクリスチャン達は信仰を捨てないわけです。ですから聖書の間違いを指摘することはあまり意味がありません。なぜって彼らは信仰を捨てないんですから!俺が捨てたって?あなたはクリスチャンではなかったんですよ!

是非これからは”聖書の正しさ”という観点で調べてみてください。矛盾では?という思いがよぎったら、「神様、この矛盾と思われる個所の謎を解かせてください」と祈ってください。資料が少なすぎるって?いいんですよ。目で見ていないことを信じるんですから!!

もし少しでもご自分の死後について不安があるのでしたら明日は日曜日です。そちらはアメリカでしょう?たくさんキリスト教会はあると思います。出かけてみませんか?クリスチャン達は暖かく迎えてくれるでしょう!インターネット上で討論するのもいいですが生身の人間と話し合うことも必要かと思います。

と、色々書きましたが、最後に一言言わせて下さい。 聖書の間違いを探すより、聖書のすばらしさを探したほうが人生が明るくなりますよ!佐倉さんがイエス様を救い主として信じることができるようお祈りいたします。

日本より愛をこめて

尾垣祐之(おがきゆうじ)

(1)「なにがきっかけで聖書を批判するようになったのですか?」

わたしは、クリスチャンの時から、聖書の矛盾には気づいており、聖書の片隅などに書き留めていました。本サイトで紹介している「聖書の間違い」シリーズは、インターネットが世に出てくる以前からわたしが個人的にやっていたことの続きです。

クリスチャン時代におけるわたしにとっての切実な問題は、聖書よりも、実は、神そのものでした。わたしは、神への信仰を通じて、ただ信じるだけでなく(信じるのは簡単です)、アブラハムやヨブなどの聖書の記述にあるような仕方で神に出会い、神を知ることができるものと思っていたのです。単なるわたしの独りよがりな思い込みではなく、わたしが心の中に作り上げる神像(それは自分に都合の良い偶像でしかありません)をぶち壊して、向こう側から有無を言わさない存在感をもってわたしに迫ってくる本当の神との出会いを求めていました。しかし、どんなに聖書を学んでも、どんなに祈りを捧げても、どんなに教会の礼拝や活動に身を捧げても、神は相変わらず完全な沈黙を続け、わたしは神に出会うことも神の言葉を聞くこともありませんでした。

そして、十数年の長いキリスト教遍歴の年月の後、わたしは、結局、神を信じていたに過ぎず、本物の神についてはなんの知識も持ちあわせていない事実をすなおに認めるようになったのです。つまり、わたしの「神」は事実ではなく、事実であってほしいと願うわたしの心が描いた、わたしの救いにたいへん都合の良い、わたしの心の中の神像にすぎないこと --- それを認めてしまったのです。

わたしが、すなおに神に関する自分の完全なる無知を認めることができるようになったのは、それまで単純に信じていた「幸福の追求」ということに疑いを持ちはじめたことと関連していると思います。そのころから、わたしは、幸福感に浸るために誤謬を信じるよりは、たとえ不幸になっても事実を知ることの方をよりすぐれた(高貴な)選択である、と思うようになったのです。わたしは、誤謬や誤謬かもしれないあやしげなものを、幸福感を得るためという理由で真理であると思い込む、そういう自分の姿をこころから尊敬することはできないとはっきりわかったのです。

わたしは、それ以後、まるで人生のすべての重荷がおろされたような、解放感を味わっています。わたしはもう、本当は何も知らない事柄(神やあの世)に関して、自分の救いや幸福のために、まるで、知っているかのごとく確信したり振舞ったりする必要がなくなったからです。

こうなると、臭いものにフタをする必要は完全になくなってしまいます。つまり、気づいてはいたがいままで無視を決め込んでいた聖書の誤謬や矛盾にわたしはすなおに向かうことができるようになったのです。聖書の矛盾は、それまで、自分の救いには都合の悪いもの、認めたくないものでした。しかし、いまは、真実を知ることがもっとも大切なこととなったのです。だから、いままでのように、矛盾も誤謬もあやしげものも何もかも、自分自身の幸福や救いのためという理由で、無理して真理であると思い込まなければならない理由は、もうなくなってしまったのです。

幸福感を得ることよりも真実を知ることをよりすぐれた価値であると決めたこと、それが、聖書の間違いをすなおに認めることができるようななったきっかけです。


(2)「永遠の命が与えられるという平安を持っています。佐倉さんはどうでしょう?」

「イエスという方が自分の罪の身代わりとして十字架上で死ん」だ、ということも、「三日後に復活された」ということも、「死んだ後も父なる神のもとである天国に帰り、永遠の命が与えられる」ということも、すべて、教祖が突然殺されて困り果てた弟子たちが、教祖の死を正当化するために主張したものです。

いずれの主張も事実としての根拠がまったくありません。根拠がまったくないとわかっているあやしげな主張を信じることに、わたしが平安を感じるこなどはもちろんありません。また、何らかの理由で、たとえば、罪の苦しさゆえに、このようなことを信じざるを得ないような状況になったとしても、少なくとも、自分の信じていることには事実としての根拠はないのだという不安を保つだけの知的良心だけは捨てたくないものです。

こういった、あやしげな主張を、何の不安もなく信じることができるのは、自分をごまかすことのできる人だけだろうと思います。


(3)「ご自分の死後について不安はありませんか?」

自分の死後については、もちろん、いろいろ考えています。現在に不安があるように、未来にも不安があります。わたし自身の「死後の世界観」については、「ある仏教徒の『死後の世界観』」に詳しく説明しています。


(4)「キリスト教以外になにかもっと正しい宗教があるとお考えでしょうか?」

こういう質問は、いかにもクリスチャンらしい質問だと思います。自分たちだけが正しいと思っているからです。キリスト教の最も醜いところです。


(5)「聖書の矛盾を探すのもいいんですが、正しいこともあるのではないでしょうか?」

どんな本にも、たいがい、なんらかの正しいことは書かれているものです。聖書も例外ではありませんから、おっしゃる通り、聖書にも「正しいこともある」でしょう。しかし、問題は、そういうところにあるのではありません。

聖書主義(聖書は聖霊の導きによって書かれたものであり、いかなる誤謬もなく、すべて真理である、という主義)の問題は、それが聖書に書いてあるというだけで、つまり、知識ではなく権威を盾にその真理が主張されるところにあります。だから、聖書の間違いを指摘することは重要なのです。聖書を絶対化することは聖書を書いた人々の言葉を絶対化することです。人間の言葉を絶対化することは、それが、天皇の言葉であろうと、ヒットラーの言葉であろうと、バチカンの法皇の言葉であろうと、教会の牧師の言葉であろうと、パウロの言葉であろうと、ペテロの言葉であろうと、わたしは認めません。


(6)「批判があっても大馬鹿野郎のクリスチャン達は信仰を捨てないわけです。ですから聖書の間違いを指摘することはあまり意味がありません。」

これも、他人の考え方や生き方を変えてやろうといつも身構えている、まことにクリスチャンらしいご意見です。自分たちがそうだから、他人もそうだと思いこんでおられるのです。しかし、わたしはキリスト教を捨てたのです。他人の考え方や生き方を変えてやろうなどという傲慢な態度を捨てることが、キリスト教を捨てるということの本当の意味です。


(7)「矛盾では?という思いがよぎったら、『神様、この矛盾と思われる個所の謎を解かせてください』と祈ってください。」

では、どのようにして、聖書に間違いがあることを知ることができるのですか? 初めから聖書に間違いのある可能性を拒否するこのような態度は、真理を知ることに興味を持たない者が、すでに信じているドグマを信じ続けるための姑息な手段に過ぎません。こういう態度は、クリスチャンが真理の探究者ではなく、ドグマの奴隷でしかないことを世に明らかにするだけです。


(8)「クリスチャン達は暖かく迎えてくれるでしょう!」

じつに長い間、わたしはいろいろな教会を訪ね、熱心に礼拝や活動に参加しました。かれらは、いつでも、暖かく迎えてくれました。しかし、どんなに暖かく迎えてくれても、それで、かれらの信じている内容が真理であることの証明にはなりません。また、どんなに冷たい人間でも、それだけで、かれの主張が誤謬であることの証明にもなりません。善人なら必ず数学や理科の試験に百点満点を取るわけでもなく、悪人だからと言って、百点満点を取らないということもありません。人徳はかれらが真理を知っていることの証明にはなりません。

いま、もし選ばなければならないとすれば、人徳はあっても知識や技術のない医者よりも、人徳がなくても知識や技術の確かな医者に、わたしは危険な手術を依頼することでしょう。しかし、このことをもっと突き詰めて考えてみれば、知識や技術の確かでない医者にそもそも人徳があるかどうか、疑わしく思われます。人の命を預かる医者に知識や技術が不足しているのは、患者の命を真剣に思っていないことの証拠とも考えられるからです。同様に、確かな知識ではなく、根拠のないあやしげな信念をなんの羞恥心もなく真理だと他人に言い触らす人々にも、そもそも人徳があるかどうか、疑わしく思われます。十分な知識と技術を得るための真剣な努力をしない医者のように、他人の人生をあまりにも軽視しているとも考えられるからです。

危険な森の中で迷っている人に、確かな知識もないくせに、信仰(思い込み)だけで、道を軽々しく教えてやることのできる親切者には、つくづくなりたくないものだと思います。