”ままちゃり課長”と申します。

以前から佐倉さんのサイトを興味深く拝見させていただいておりました。小生自身、かつては聖書に対して懐疑的な認識をもっておりましたが、現在は「聖書は無誤無謬の神のことばである」ことを信じて疑いません。そういう認識に基づいて、4月から「聖書館」というマイナなーサイトの管理者をやってます。

聖書批判への反論を専門とするサイトではありませんのではなはだ不十分ではありますが、佐倉さんの御主張に関連するものとしては、2つの記事があります。

一つは、マルコ2:26のアビヤタルに関する記事です。ここでは、マルコ伝で epiAbiathar arkiereos と称することが誤りでも何でもないことを説明しています。 

大祭司アビヤタル http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/abiathar.htm

もう一つは、わたしのプロフィールに関する記事です。この中段では、そもそも聖書批判の前提となっている宗教「学」ないし聖書「学」が、果たして「学問」としての内実を有しているかについて、言及しています。

プロフィール  つまらないひとりごと http://www.sam.hi-ho.ne.jp/pisgah/myweb/profile.htm

もし、おめがねにかなうようであれば、反論サイトの末席にでも加えていただければ幸甚です。・・・ダメかな(^^;)

さて、実は、他にもっと伺いたかったことがあります。佐倉さんは、このサイトの中で、この「聖書の間違い」の目的は、聖書の完全無謬性を主張するファンダメンタルな立場の検証・批判であり、決して「キリスト教を否定する」試みではない、と幾つかの箇所で繰り返しておられます。小生のキリスト者としての信仰は、聖書は無誤無謬の神のことばである。従って神を信じる道、教理、信者として歩む道等々(ひっくるめて言えば「キリスト教」)はすべてこの正確な聖書に根拠すべきものと考えています。

そういう小生からみますと、入口(前提)では、聖書という教典にはさまざまな”誤り”があると言いつつ、出口(信仰告白)では使徒信条に代表される、オーソドックスな信仰を告白する立場(非ファンダメンタルな”キリスト教”)の思考過程が、どうにも理解できないのです。

例えば、一方で新約聖書を人間の信仰告白の書といいつつ、他方で罪の贖いや信仰による救いという伝統的な教えを一生懸命宣伝するという立場の、入口(聖書観)と出口(信仰)の間のブラックボックスには、どういう回路が存在するのか、とても不思議に思います。実は小生自身がかつては、そういう立場をとっていましたが、小生自身に関して白状すれば、恥ずかしいことに「深く考える作業」をしていませんでした。御都合主義といってもいいかもしれません。

そういう立場=聖書は、人間の信仰告白の書物であり、現実には神はいないかもしれない(又は聖書の述べるとおりの神ではないかもしれない)、贖いの思想は後日の信仰である、復活もしかり・・・とするなら、彼らはどうして貴重な日曜日に教会に行ったり、献金したり、伝道したりするのか。何だか存在しない土台の上に、キリスト教(使徒信条、信仰告白)という家を建てているようで、滑稽だと思いませんか? もしキリスト教がそういうものであるとしたら、愚の骨頂であって、わたしは、それこそキリスト教を否定したいと思います。

佐倉さんの目から見て、そういう入口と出口のつながらない”キリスト教”なるものはどう写りますか? 「聖書を無謬と信じる。ゆえに、そこから導き出される信仰告白を信じる」「聖書に誤謬ありと信じる、ゆえにそこから導き出される信仰告白は信じない」というのならともかく、「聖書に誤謬ありと信じる。しかし、昔ながらの信仰告白を信じる」という芸当は、わたしにとって大いなる謎です。もし、わたしが聖書の無謬性への信頼を捨てる時があるとすれば、その時には、キリスト教との縁をキレイさっぱり捨てることでしょうね。

ご要望通り、リンクさせていただきました。

「聖書を無謬と信じる。ゆえに、そこから導き出される信仰告白を信じる」「聖書に誤謬ありと信じる、ゆえにそこから導き出される信仰告白は信じない」というのならともかく、「聖書に誤謬ありと信じる。しかし、昔ながらの信仰告白を信じる」という芸当は、わたしにとって大いなる謎です。
わたしにとってもそれは謎ですが、皆さんからのお便りを読んでいるうちに、最近、その謎は分かりかけてきたような気がします。それは、「聖書から信仰へ」という流れではなく、「信仰から聖書へ」の流れとして理解すれば良いのではないか、ということです。彼らにとって、初めに個人的救済信仰があって、その付け足しとして聖書があるにすぎない。そのために、聖書の誤謬(あるいは真理性)などほとんど気にならないのだろう、そんなふうにわたしは最近思い始めています。彼らの信仰の内容を考えてみるに、別に『聖書』でなくてもよく、『歎異抄』でもよかったのだろうと思います。たまたま、親鸞よりも福音書にさきにめぐり合ったとか、お寺の雰囲気より教会の雰囲気の方が好きだとか、そんな具合ではないかと想像しております。実際、わたしの出会った多くのクリスチャンはほとんど聖書を読みません。