あなたとの意見交換が理想や真理や信仰という未だ実現しない自己の現状の能力を超えた上に存在するものであるものへの真剣なる追求として考えていましたが、あなたの意見があまりのも極端なる決めつけと思い込みと次元の低い理論による反論でしかない為に、常に残念であります。

人は一般に現実に妥協と断念の繰り返しの経験でやがて理想なるものを否定して、堕落してしまうものです。そのことを世間では大人になるとか社会人として一人前になると考えがちですが、しかし、彼ら自身がその人生について本当に満足している上での言葉であるかが問題です。

あなた自身も常に信仰や理想について批判的立場での意見ばかりで、あなたの引用する評論家も机上の空論にふけるタイプの陰湿なる知識人でしかありません。私にはあなたが日常生活において非常な不満や不安や失望にあってその欲求不満から、嫉妬とねたみから人の理想までをも堕落させようとする悪意しか感じ取れません。

先日あなたが述べた『恋愛』一つにしても、どんな相手を選ぶかによって自己の人生も決まります。アダムとイブの時代より男性は女性によって堕落もするし理想を追い求めもします。あなたを愛する女性や家族の精神的次元があなた自身の生活を決めているといっても過言ではないでしょう。あなたの言動が真に愛する人々に受け入れられ尊重されるかを考えてみれば、自己の発言の真意が良くわかるはずです。あなたの発言を理想とする人の前でも語れる自信があるのでしょうか。

自分が与えられ与えている『愛』の次元が社会に関わる態度にもつながり、隣人に対する態度にもつながります。あなたの説く恋愛が単なる肉欲や自己愛の充足のみにあのか、それ以上にあるのかは求める相手や付き合う相手によるのです。

私は人生の意義を様々なる形で求めてきました。その自己の探求の果てにようやく確固たる精神への力を維持してくれるキリスト精神にたどりついたにすぎません。既成宗教団体や教会によってではありません。もし、教会経由での信仰への到達であれば、確信もなく失望だけにあったでしょう。

私の場合は孤立と孤独の中で必要にかられて導かれた信仰です。あたかも、死に瀕した者や罪に泣く者のごとく私は生まれ変わらざるを得なかったからです。

あなたが、少しでも真剣に理想を追い求めつづけている日常生活を送っているのであれば、そのような反論ばかりに注力せずに互いの真理追究の道を認め合いたいものです。

批判は肯定であり、肯定は批判です。どちらも同じことになると思います。「A」の立場を批判することは「非A」の立場を肯定することであり、「A」の立場を肯定することは「非A」の立場を批判することだからです。

田中さんの主張は、それとは立場を異にする人々への批判が、意識されていようとなかろうと、含意されているのです。わたしの田中さんの理想主義に対する批判は、田中さんの理想主義に否定された立場(「働き人」)を弁護するものです。

わたしの働き人弁護論は、すでに、充分だと思いますので、書き足すことはありませんが、田中さんのおたよりには、宗教、とくにキリスト教に関心を持つ現代日本人にとって、とても重要なことが語られていると思います。意見を交換することができてとても良かったと感謝しています。

ただ、もう少し論点を絞るべきではないかと思います。たとえば、田中さんのご主張の根拠には聖書があります。

キリスト精神における信仰とは絶対的唯一なる見えざる神と真理の存在を『イエスの生涯と教え(聖書の解釈)』を通して理想として確信できる
といわれているとおりです。それに対して、わたしは聖書の記述は信頼できない、という立場を表明しています。そこで、この辺について、意見を交換できればいいと思います。田中さんはなぜ聖書を信頼することができるのですか。それは神の言葉ですか。ご意見をお聞かせください。