佐倉様、お返事ありがとうございました。

結論としては「神にも不可能なことはある」ということですね。「神といえども因果律から逃れることはできない」と。

この結論についてはキリスト者からは異論があるかもしれませんが、そうだとすると、「主には不可能はない」「全能なる主」という言明はそれ自身矛盾を含んでいる(誤りである)と断言できるのではないでしょうか。これは聖書の主張のほぼ全てが間違いであるということに等しいでしょう。

この論理は因果律の外側にある神の存在については否定も肯定もしない(論理が通用しないから)のですが、確かに因果律の外側にある神について考えても無駄だとは思うようになりました。

>頭の中でひねりあげられた観念にすぎない
からというよりも、論理が通用しないのであればその存在について考えること自体が無駄だからです。ましてや、それを信じるのは「私は論理を信じない」ということに等しいでしょう。

論理は、因果律(事実関係)というより、矛盾律(言語関係)だと思います。

言葉の上では(というよりも、言葉の上だから)いくらでも矛盾を作り出すことができます。たとえば、前回あげた、「三角の円」というような概念をわたしたちが簡単に作り上げることができるのは、それが言葉の組み合わせにすぎないからです。「頭の中でひねりあげられた観念」とはそのこと(言葉の組み合わせにすぎないこと)を意味しています。

「半径が10センチの円」は、これを描くことができますが、「三角の円」は、それができません。「三角」とは角が三つなければならず、円には角がないことが必要条件であるため、「三角の円」は矛盾した言葉の組み合わせとなっているからです。矛盾した概念(「三角の円」という言葉)にはそれに対応する存在(図形)があり得ません。単に、存在しないのではなく、存在が不可能です。

そもそも、存在が不可能な事態を語る言明のことを古人は「矛盾」と言ったのでした。

(1)この矛はいかなる盾であろうとそれを貫くことができる。
(2)この盾はいかなる矛にもけっして貫かれることがない。
このような二つの主張を同時に満たす盾と矛が存在できない事態のことを、古人は「矛盾」と言ったのでした。

矛盾した概念は必ずしも無意味ではありません。わたしたちは、「三角の」という言葉も、「円」という言葉も、理解できます。理解できるからこそ、「三角の円」という合成語が矛盾していることが、はっきりとわかるわけです。

神の定義が矛盾していれば、その定義が言うような神は存在しないことが理解できます。そのような神は存在不可能だから、そのような神は存在しないと断定できるわけです。これは神の存在についてわたしたちが断言できるおそらく唯一のケースだろうと思います。

このように、矛盾したものは存在不可能である、とわたしは考えるのですが、木原さんの、「その存在について考えること自体が無駄」「因果律の外側にある存在については否定も肯定もしない(論理が通用しないから)」という立場は、まだ、矛盾した存在の可能性を認めている立場のように見えます。論理を矛盾律(言語上の規則)としてではなく因果律(事実に関する法則)として捉えられているからかもしれません。