はじめまして。私は聖書に関して門外漢なのですが、こういう解釈はなりたたないも のでしょうか。

 1.それまで永遠だった生命が有限のものとなった
 2.それはおよそ120年程度である

これは現在の日本人の寿命が80歳と言い切っているにもかかわらず、泉重千代氏が 120歳まで生きた例のあることとなんら矛盾が生じない論法と同じです。500歳 まで生きた記述はあるようですが、120歳以前に死亡した例もまた(記述があるかど うかは知らないが)聖書執筆当初からあり、永遠に生きた記述はないはずです(ある なら現在も生きていると考えられるから)。このような表現はまだ絶対的矛盾と言い きれず、受け入れられる余地があるのではないでしょうか.

私は絶対神と崇拝の関係に絶対的矛盾がある以上、キリスト教とそれに類似するもの は信奉しませんが、多くの人々を魅了してきた聖書には興味があります.そして貴兄 の論理的側面からの聖書へのアプローチも関心を持っています.故に論理として「究 極的な矛盾」ではなく「疑問符付きの解釈」を提示されるのは、貴兄の主張を弱める ことになるのではないでしょうか.

以上勝手な意見を述べさせていただきました.聖書研究者として不当と思われるなら 門外漢の意見として聞き流されて差し支えありません.では.

suezo
nuderider@geocities.co.jp

「それまで永遠だった生命・・・」という聖書解釈は不可能です。人間はそもそも、神々のように永遠の命を得ることがないように、神が楽園を追放したのですから。

主なる神は言われた。「人はわれわれの一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きるものとなるおそれがある。」主なる神は、彼をエデンから追い出し・・・(創世記 3:22)
また、洪水後の人の命、たとえば、438歳(アルパクシャド)、433歳(シェラ)、464歳(エベル)などを、「およそ120年程度」と呼ぶのは、無理なような気がします。

わたしは「究極的な矛盾」というようなことは考えていません。わたしにとっては、なにがより説得力があるか、という問題です。つまり、「464歳でもおよそ120歳といえる」という拡張解釈がより説得力のある解釈か、それとも、創世記は、J資料、E資料、P資料、D資料、など別々に伝えられた古い資料を総合したものだから矛盾があっても当然、という広く認められている現代の聖書学の主張がより説得力のある解釈か、ということになるでしょう。各個人がそれぞれ自分のために決定することです。

いろいろ拡張解釈をすることはもちろん可能ですが、いろいろなところで繰り返しているように、それは、真理を知るための努力なのか、それとも、すでに信じているドグマを正当化するための努力なのか、という、もっと重大な信仰者の知的良心の問題と直接つながっています。この「聖書の間違い」がやっていることは、じつは、この問題を光の下にさらしだす営みと言えるかもしれません。