佐倉さんは、「信仰=不確かな思い込み」と書いていましたが、私の行っている教会の教えの中に「見ないものを信じるのが信仰である」と言うのがあります。見て事実を確認してしまうと、それはその時点で信仰ではなくなるのでしょう。でも私は不振に思うのは、すべての人が、すべての事を事実確認しているのでしょうか?と言う事です。現に佐倉さんのホームページの記述でも、そのほとんどが自分で確認した事実ではなく、文献などによる知識によるものだと思えます。第一モーセがなんと言ったかとか、キリストが何をしたかなんてどうやって確認するのでしょうか。

物理学でも、電子とか中性子とか言いますが、誰も見たものはいないし触れもしない、でもその存在はみんな信じているではありませんか。素粒子の中にはまだ確認もされていないのに「このような素粒子が存在するはずだ!」と言う事だけで認められているものあったと思います。これは「まず仮説を立ててその仮説に沿った論理を展開し、現実と一致したらその仮説は正しい。」と言うやり方だと思うのです。ですから多分そうだろう、そうと考えるとつじつまが合う、そう考えた方が合理的だと言った、不確かなものによっても、この世の科学や論理が成り立っていると言う気がします。

歴史学や考古学なんかもそのたぐいだと思います。よく大阪で言われるジョークなんですが「たこ焼の鉄板が1000年後に発掘されたら学者はどういうやろうか?」私は、自然科学や歴史学考古学などをばかにするつもりはありませんが、どれだけ真実を伝えてくれているかは、私にとって学者や出版社を信じるしか方法はないのです。佐倉さんの実在さえ私にとっては信仰でしかありません。インターネットの画面であなたの主張を読んでいると言うだけで、あなたがこの世に存在するなんの証拠もありません。

私にとって「神の実在を信じる」事も「佐倉さんの実在を信じる」事も「電子や陽子や素粒子の実在を信じる」事もまったく同じ事なのです。佐倉さんは、すべての事(真実)をはっきりと知りたいと思っておられるようですが、それは人間に可能なのでしょうか?私のように知恵の浅い人間にはとても可能な事とは思えません。

私は、私の父の父の父に「十七吉」と言う人がいた。と言う事実を信じているのと同じ様に神様は存在すると言う事を信じています。「十七吉」さんがいた事は戸籍に書いてあり、おばあさんからも聞きました、この事は一つの文献と一人の証人により事実だと信じました。

神様については複数の文献と何百万人の証人により事実だと信じました。また信仰を持って行う生活や、祈り、また私にとっての奇跡によって神今生きていると言う事を知りました。もちろん、この事をあなたに信じてくださいとは言いません、ただ私は信じています。

佐倉さんは、すべての事を疑って検証する事によって真実が分かると考えておられるようですが、私は、一つの事を信じて実践し、ただ一つの目的に向かっていきる時に真実が分かるのだと思っています。

あなたから見て、あえて反論するほどの内容ではないと思いますが、もしご迷惑でなければ、簡単にご意見を聞かせた下さい。

次は「必然と偶然、奇跡と自然現象」について書くつもりです。迷惑だったら無視してください。

haruo


だいたい、ここで述べられているご意見、つまり、

不確かなものによっても、この世の科学や論理が成り立っていると言う気がします。
というご意見にはわたしも同意するものです。


(1)信仰とは

つまり、わたしは、haruoさんが誤解しておられるように

「信仰=不確かな思い込み」と書いて
はいません。また、わたしは
すべての人が、すべての事を事実確認している
というようなことも主張していません。

むしろ、わたしは、信仰については、たとえば、

信仰とは、必ずしも喜ばしいとは限らない真実を直視することより、救われたい欲求ばかりを先行させること(98年2月9日

信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること(98年3月21日

信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること(98年3月28日

[信仰とは]教祖や聖書の権威への盲目的依存(98年7月7日

などというふうに書いています。


(2)信仰と知識

要するに、わたしの信仰批判は、それが「不確かなもの」だからというところにあるのではなく、信仰による真理の主張が、知識を根拠にした主張ではないところにあります。

まず第一に、不確かである、ということは、むしろ知識についてこそ言えるのであって、不確かであることは知識にとっては必要条件です。それにくらべて信仰は、権威への依存や救いへの執着などから生まれたものであるために、「確信」しなければなりません。(わたしの知識論に関しては、「真理・論理・真理の根拠」を参照して下さい。)

知識とは、それが知識であるがゆえに、必ずそれは限定的(局部的、条件的)なものです。それゆえ、知識は、条件的に信頼することができ、また、新しい観察や前提の批判や再吟味によって、否定や修正や発展を可能とします。(「真理・論理・真理の根拠」より)
科学における仮説は、それが覆されたり修復される可能性を始めから前提としていいます。その繰り返しが科学の発展とも言えるでしょう。したがって、疑いかつ批判することは科学においては必要条件ですが、信仰とは、本当は知らないにもかかわらず、それを知っているかのごとく「確信」することですから、どんなに疑わしくても、信仰を貫くことが価値ある態度とされており、疑うことや批判することは、始めから遠ざけられます。そのために、
佐倉さんは、すべての事を疑って検証する事によって真実が分かると考えておられるようですが、私は、一つの事を信じて実践し、ただ一つの目的に向かっていきる時に真実が分かるのだと思っています。
という姿勢が出てくるのだろうと思います。

それは、今日のオウムについても同じことが言えるでしょう。「あんなことがあったのに、まだオウムを信じている」という一般の声があるようですが、わたしは、当然のことである、と思っています。「一つの事を信じて実践し、ただ一つの目的に向かっていきる・・・」という言葉がまさに信仰の本質を示しているからです。知識は自らを疑うことをその本質としていますが、信仰が自らを疑うのは自己矛盾であり信仰の自己破産だからです。

第二に、科学は、基本的にだれでも繰り返せば同じ結果が出る実験や観察(客観性)を根拠にしています。ですから、たとえば、理論物理学者は彼らの理論が実験や観察によって確かめられるまで、ノーベル賞をもらっていません。単なる仮説は知識ではないからです。それに比べて、信仰は心の中で個人が勝手に思い込むだけで成立しますから、その主張は実験や観察によって確かめる術がありません。たとえば、神は実験や観察の対象になりません。信じたいという欲求さえあれば、「神は存在する」「聖書は神の言葉である」「キリストによってのみ救われる」というような信仰は成立します。

このように、信仰と知識の間には、埋めることのできない溝が存在しています。

最後に、確実さの程度について、考えてみたいと思います。haruo さんは、

私にとって「神の実在を信じる」事も「佐倉さんの実在を信じる」事も「電子や陽子や素粒子の実在を信じる」事もまったく同じ事なのです。
といわれますが、本当にそう思っておられるのでしょうか。信仰の根拠を示すことができないので、科学にも根拠がないのではないかと言うことによって、根拠のない信仰を正当化されているだけではありませんか。

わたしにはむしろ、より確かな根拠による主張はより確かな主張であるとし、よりあやしい根拠の主張はよりあやしい主張であるとし、間違っている根拠による主張は間違った主張であるとすべきだと思います。実験や観察の対象となりうるもの(科学知識)も、実験の対象にも観察の対象にもならないもの、すなわち、そうであって欲しいと強く願うだけで成立するもの(信仰告白)も、どれも皆同じだ、と一列に並べるのは、一種の自己欺瞞だと感じられます。