ポイラ村です。

佐倉さんはモーセ6書を彩る各資料をごぞんじなのに、どうして聖書には矛盾があるというのですか?資料間では違いがあるのは当然ですし、ご存知のように現代聖書学はそれを前提にその学を進めています。そこで新しいイエスの発見があるわけです。そこで、ノアの箱船の動物の数なんて問題をわざわざ聖書の矛盾として出すほどのことはないんではないですか?もし、旧約各資料間に矛盾があるという事が「キリスト教」あるいは「その神様」の問題として訴えるお積もりなら、そこからおはじめになるべきであろうと思います。

たとえば、ノアに関する記述の中で、人の生涯年齢ですけど・・・・これも結局資料間の違いじゃないですか。それを矛盾と主張するのは議論の仕方としてフェアじゃないと思います。ここはJ資料だからどう、ここはP資料だからこうと言った話をしないとここはたんなる「非難」のページになってしまうのではないでしょうか??


[佐倉氏の指摘は]結局資料間の違いじゃないですか。それを[聖書の]矛盾と主張するのは議論の仕方としてフェアじゃないと思います。
現代の聖書学(それはしばしば「聖書批評学」と呼ばれている)の立場は、ポイラ村さんが考えておられるように、矛盾があるのは資料間のことだから聖書の記述に矛盾があるとは言えない、というような不可思議な立場ではなく、むしろ
事実:聖書には沢山の矛盾がある。
仮説:その矛盾を説明するには、聖書がもともと複数の異なった伝統(資料)をいろいろな形で総合させてできあがったと考えるのがもっとも合理的である。
という立場ではありませんか。

JEPD資料やQ資料は、考古学者や歴史学者が発見した物件ではなく、聖書記述間の矛盾や言語学的相違などから聖書学者が想定している仮説の中にのみ存在する「資料」です。聖書の矛盾は、JEPD資料説やQ資料説の仮説を支える有力な根拠のとなっているのです。ボイラ村さんが言われるように、「現代聖書学はそれ[資料説]を前提にその学を進めて」いるわけですが、その資料説の前提になっているのが、聖書の記述には矛盾があるという聖書批評学者の共通認識です。だからこそ、聖書には間違いがない、という立場を取る保守的聖書学者は、これらの資料説をいまでもかたくなに否定しているのではありませんか。

わたしがときどき資料に言及しているのも、同様に、それが、聖書にある矛盾のいくつかを説明するのに説得力があると思われるからにすぎません。一つの事柄に関して矛盾する異なった聖書記述があるのは、見方を異にする複数の伝承がその背後にあったからであるというこの仮説の説明は、単純明瞭だからです。

それに比べて、矛盾があるのは資料間のことだから聖書の記述に矛盾があるとは言えない、というようなボイラ村さんの不可思議な立場が説得力を持つためには、かなり高度な曲芸的説明を要することであろうと想像いたします。